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「才能が足りないからこそプロになる」っていうケース(単細胞文学)

こんばんは彭城吾朗(さかきごろう)です。

少し間が空きました。
今後も空くかもしれません。

近頃は、
文学を活動の主軸にすると決めてから、
どうも気持ちばかりが先走っています。
「本読みまくって諸分野に精通するぞ」といってろくに読書してなかったり、
「いまに傑作小説書くぞ」といってさっぱり原稿書いてなかったり、

だめですね。
夏の暑さのせいにします。

ド文化系人間のため、
スポーツにはほとんど興味がないのですが、
わけあって新庄剛志というアスリートにだけはとても興味があります。
ファンになったのは彼がメジャーに挑戦していた頃のことですが、
その話はまた別の機会に。
新庄さんは子供の頃からスポーツ万能人間で、
学生時代なんの競技やらせてもナンバーワンだったそうですが、
野球だけが一番になれなかった、
それで、
どうして野球だけ一番になれないんだろう?
どうして?
どうして??
と気になって、
心に引っかかって、
野球に拘ってるうちに、
プロ野球選手になったようです。

スポーツ、芸術、
まあ技芸ってやつですか、
それでプロになる人にはツーパターンあると思います。
「俺って天才」と己の天性の素質に自信たっぷりで、
その自信とプライドに努力を加えてプロになる人。
「なんで俺うまくやれないんだ?」という疑問符がつきまとって、
上達したくて努力して、
さらに運もいくらか後押ししてプロになる人。

私は、
アートジェネラリストと名乗り、
この人生で音楽、絵画、詩、小説の四つのアートフォームに取り組んできましたが、
音楽、絵画、詩にはけっこうな自信と自負があります(ありました)。
でも、
小説だけ、
凡才だと思ってます。
まあ、
ちょっとカッコつけさせてもらえば、
異能の凡才といったところでしょうか。

芥川賞や他の純文学系の賞をとってプロになった作家さんたちの小説と、自分が書いている純文学のつもりの小説とを読み比べると、
いつも、
「俺の小説って単細胞だな」
という想いです。
彼らが小数点の、何ミリメートルのレベルで話を書いてるのに、
自分のは何センチメートルのレベルで話を書いてる、
そうしか書けない、
そういう感覚です。

単細胞文学ではプロは無理でしょうか。

自分を自分で援護すると、
フランシス・ベイコン(画家)の油絵の具のブラッシュストロークも、
ジョニー・サンダースのギターソロも、
どちらもいい意味で単細胞のそれだろう、
単細胞にも可能性はある、
持って生まれたこの単細胞という性質を、
何かの方法を編み出してうまく活かせばいい。
と、
そんなふうに考えています。

現在、
そのままズバリ「単細胞文学」というタイトルの短編書いています。

この単細胞的性質を専一に磨いて、
いつか他の追従を許さぬ堂々たる作風を樹立し、
芥川賞を飛び越えて、
目指すはブッカー賞でしょうか。
あ、
あれは英語小説の賞か。

ではまた。

猛暑にお気をつけください。


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