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ひとつ大人になって忘れませんか

春の嵐。妻の入院の延期が決まる。病院の説明によると、優先順位の低い手術は全て延期らしい。政府からの要請により。仕方のないことである。

病院からの帰り道、上野の不忍池に出る。ひっそりとしている。人気がないのは、雨だけのせいでもないだろう。

池の向こうのマンションがぼやけて見える。その高層階には、妻の昔の職場の経営者が住んでいたはずだ。家族と別居中の彼は毎晩、風呂上がりにバスローブをまとい、窓の外を見下ろしながら、ワイングラスに注いだ果汁100%のぶどうジュースを飲んでいるらしい。私たち夫婦は、ぶどうジュースの商品名に因み、彼のことを密かに”ミスター・ウェルチ”と呼んでいる。

遊歩道に桜並木が続く。花はそろそろ散るだろう。木の枝に集う鳥たちはそんなことお構いなし。ピィピィギョ―ギョ―騒いでいる。

駅前のコンビニに寄ると、「もうすぐ春ですね」と歌うコーラスが耳に入る。店のBGMがキャンディーズの『春一番』。コンビニにしては珍しい選曲である。ドリンクコーナーを物色しているとき、こんなフレーズが私の耳をとらえる。

別れ話したのは去年のことでしたね。ひとつ大人になって忘れませんか?

元恋人に復縁を迫るようにも取れる歌詞……。春という季節に新生活への希望を託した歌だと思い込んでいたけれど、意外と未練がましくて、いじましい歌なのかもしれない。歌詞を調べてみる。

日だまりには雀たちが 楽しそうです
雪をはねて猫柳が 顔を出します
もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか
おしゃれをして男の子が 出かけてゆきます
水をけってカエルの子が 泳いでゆきます
もうすぐ春ですね 彼を誘ってみませんか
別れ話したのは 去年のことでしたね
ひとつ大人になって 忘れませんか
もうすぐ春ですね 恋をしてみませんか

作詞・作曲:穂口雄右
https://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35536

穂口雄右が作詞した他の作品についても調べてみる。その過程で、彼の経歴に興味が湧く。

穂口雄右は作詞家・作曲家として成功した後、約40年間携わったJASRACを2012年に退会し、「著作権フリー」への挑戦を始める。その背景には、レコード協会によるYouTube動画の一方的な「ブロック(削除)」があった。

彼が手掛けた『春一番』や『微笑みがえし』のYouTube動画には膨大な数のコメントが付き、中には2011年に亡くなったキャンディーズのメンバー田中好子さんを偲ぶ言葉や感謝の言葉が綴られていた。だがレコード協会は、著作隣接権を根拠に、ファンのコメント共々動画を「ブロック(削除)」してしまう。彼にはそれが許せなかった。

著作権者はYouTubeの動画を「ブロック」するだけでなく「収益化」することもできる。「収益化」を選択すれば、レコード会社は著作隣接権者として収益を得ながら、ファンのために動画を掲載し続けることもできたのに、と。因みにアメリカの著作隣接権者はほとんど「収益化」を選択しているという。

<以上は、こちらのインタビュー記事より>

その後、彼は”TUBEFIRE”というYoutube動画ファイルのダウンロードとファイル形式変換を行うサイトをリリースする。

同サイトに対し、日本レコード協会31社が約2億3000万円の賠償金を求めて提訴。裁判は2014年に和解が成立。レコード会社側が損害賠償請求を放棄するかわりに、サービスを再開しないことで双方合意した。

TUBEFIREの著作権保護システム(詳細はこちら)が有効に機能していたため、レコード会社が損害を主張した10,000ファイルのうち、実際に侵害の可能性があると裁判所が認めたのは121ファイルだけだった。高額の著作権裁判で損害賠償が0円に終わるのは前代未聞らしい。

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ひとつ大人になって忘れませんか。なかなか思いつかないですねこんなフレーズ。忘れるのも大人の技量でしょうか。あるいは、大人にならないと忘れられないものでしょうか。帰宅したあとも歌詞のことが忘れられず、Amazon Musicで『春一番』を見つけて、イヤホンで繰り返し聴く。聴いているうちに雨が止んだ。嵐が過ぎたら、今年の春もそろそろ終わるだろう。

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