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生活をちゃんとする、ということ

仲のいい友人がこぞって東京へ集結していた11月中旬、この機に私も久しぶりに東京へ赴いていた。

愛おしい人たちと再会できた楽しい東京旅行も束の間、帰阪してから思いっきり風邪をこじらせた。

旅行前から薄々喉の乾燥や気だるさを感じてはいつつも仕事を休む訳にもいかずとりあえず忙しさでしんどさに蓋をしてきたがとっくに限界にきていたらしい。


仕事終わりの冷たいホーム。鼻水でカピカピになりながらかろうじて呼吸する。悪寒に身体を震わせ、まるで目出し帽と言わんばかりのでかめマスクからぼーっとXのタイムラインを眺めていると、


「喉の痛みからくる風邪の人は五臓六腑の『肺』が弱っているから白くて辛い根菜(大根、玉ねぎ、蓮根、葱など)を食べてみて」


と東洋医学を紹介するアカウントを発見。

その途端、連日の体調不良でめっきり食欲が欠如していた私の胃袋が急にぐうーっと動きだした。

大根と生姜のスープが食べたい。



無性に野菜のあの"旨み"が欲しくなって、仕事終わりに材料を購入することを決意。

でも、自炊は本当に気力がないと無理だよな。と一瞬迷う。まず包丁だすところからめんどいし、洗い物も増えるのも分かりきっててだるい。毎度仕事終わりに自炊なんか出来るはずがない。正直材料費もかかるし何より一人暮らしは食材が余る。丁度いいサイズってまじでなくて、必ずワンターンで使いきれず残りはタッパーに入れるかラップするかで冷蔵庫がパンパンになってるし数日後しなしなに干からびた野菜が奥の方から出てくるなんてザラにある。


それでもどうしても、自分で作った野菜たっぷりのスープが食べたかった。五臓六腑に効かせてあげたかった。


人は疲れていると感覚が鈍る。特に味覚は狂いやすい。
忙しかったり心が疲弊したりしている時ほど、ついカンタンで人工的な甘味やジャンキーさを欲してしまう。

でもきっと、"本当にカラダが必要としている味"ってそういうのじゃない。


もちろん、激務で疲れきった身体にコンビニスイーツが効くときだってあるし、むしゃくしゃしてああ~~もう!!!と自暴自棄になりかけたとき、深夜のマクドのポテトこそ良薬になるってことは分かっている。逆にそういう時は欲望にフタをしないと決めている。そういう甘さやジャンキーさがないとやってられないのが人だしそれで良いと思ってる。


でも今の私に与えてやるべきはそれらじゃない。野菜本来のもつ素朴で、やさしくてほんのりとしたあの「ほっ」とする味を、本能レベルで求めてるのだ。


仕事終わり、深夜の方が近い時刻になろうとする中スーパーに駆け込み、必要具材たちをかき集めた。


こうやって思い立って必要なものたちが揃えられるのも、こんな時間までスーパーを開けてくれてる人たちがいてくれるからだ。いつ行ってもちゃんと開いてて、品揃えもある程度担保されてある。弱ってると、そういう普段は「当たり前」として見逃してしまいがちなことだって目について有難く感じられるし、その温かささえ五臓六腑に染み渡る。



帰宅するや否や、たっぷりの水を鍋にかける。ザクッザクッと豪快に切った白菜を浮かべる。うん、なんて気持ちええ。

お次は大根。大根はやっぱり、切る時のサクサクという音が心地良い。包丁で食材が切れる音、ぐつぐつと煮える音聞いているうちに、心が不思議と落ち着いてきた。



別に見栄えとか完璧さとかどうでもいい。とにかく、ものすごーく手間のかかることをやっている。だからこそ意味がある。自炊とは「自愛」だ。自分のためにそんなめんどくさいことをやってあげているのは、愛なのだ。



大根、白菜、エノキをたっぷりと。普段は調味料もちまちま使ってケチるけど、本だしだって贅沢に一本まるまる使っちゃう。

お気に入りのお味噌汁用のお椀に薬膳スープを注ぐ。たちこめる湯気と生姜の香り。一気に食欲がそそられる。


机にスープともち麦ごはんを並べてみたら、なんだか何とも言い難い温かさと嬉しさが込み上げてきた。包丁を握ったのも、ちゃんと器を出して"食卓"をつくったのもいつぶりだっけ。

東京ではたくさん美味しいものを食べて胃はきっと疲れているし、ここ最近忙しさにかまけて食事はめっぽう疎かになってしまっていた。

こんな贅沢な夜食、適当に流し込むなんて勿体無い。スマホを置いて、目の前の食事をゆっくりしっかりと味わうこと。そんな当たり前のことが、いつしか出来なくなっていた。

プチプチと弾けるもち麦の食感を舌で確かめながら、鼻から抜ける生姜の香りと野菜の甘味を味わう。


私が尊敬して止まない星野源が、いつかのオールナイトニッポンで『しんどいときこそ、"生活"をちゃんとすること。』と語っていた。


そして彼の著書『そして生活は続く』でも取り上げるほど、星野源は"生活"に重きを置いている。



どんなに大勢の前で芝居をしても、演奏をして拍手をもらっても、一度家に帰ってひとりになるど、とてつもない虚無感が広がっているように感じた。

生活が苦手な星野氏は仕事の予定を入れまくって、虚しさから逃れようとした。

そしてある日、過労で倒れてしまうのだ。

そんなとき、彼の母親との会話が以下だ。

そんなとき、彼の母親との会話が以下だ。

「過労? ……ああ。あんた、生活嫌いだからね」
「え?」
「掃除とか洗濯とかそういう毎日の地味な生活を大事にしないでしょあんた。だからそういうことになるの」  

なんだかわからんがその通りだ、と朦朧とした頭で思った。  
私は生活が嫌いだったのだ。
できれば現実的な生活なんか見たくない。ただ仕事を頑張っていれば自分は変われるんだと思い込もうとしていた。
でも、そこで生活を置いてきぼりにすることは、もう一人の自分を置いてきぼりにすることと同じだったのだ。
楽しそうに仕事をする裏側で、もう一人の自分はずっとあの小学生の頃のつまらない人間のままだったのである。


確かにその通りだよな、と痛感した。


人は誰しも『生活』を積み重ねてその人自身を創り上げている。自分が食べたものでカラダは造られるし家がぐちゃぐちゃなままだと大抵生産性は下がる。だからそんな『生活』を疎かにするということは、自分を蔑ろにしているということなのだ。



「生活をちゃんとする」こと。一見地味で自分を変えたい、この鬱屈とした日々から抜け出したいと焦る今の自分にとって、実はそれが回り回って

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