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聴覚失認者は何を物語るのか?(3)

 では、いよいよ「聴覚失認者の〈語られることなかった物語〉」の話を始めます。

 聴覚失認者の多くは脳梗塞(ーこうそく)や交通事故などで起こった脳挫傷などで脳にダメージを負い、その時点から人生が変わった人びとです。このような疾病や事故を負ってしまうと、自己の置かれた状況のあまりの変化に、人は驚愕(きょうがく)し、取り乱し、やがては自己の内面に沈降してしまいます。

 わたしは脳塞栓(そくせん)症という血栓が脳の血管に詰まる、自分では病気というより事故に遭ったような状態だったのですが、「自己の内面に沈降」する代わりに不思議な夢を見ていました――ある意味では自己の内面への沈降そのものかもしれません。それはこんな夢です。

 わたしは水の中を漂っています。このまま底まで沈んでしまうのか、それとも下流へ流されてしまうのかは分かりません。何も不安は感じず、ただ水の流れに身を任せていたのです。水中では息ができないはずなのに、ちっとも苦しくありません。それとも、わたしは何か勘違いをしていただけで、そこは水中でなどないのでしょうか。

 頭に違和感を感じました。頭痛とはちょっと違います。ちっとも痛くはないのです。あえて言うなら、わたしの頭を何かがつかんでいて自由に動かせない。そんな感じです。でも、何につかまれているのかは分かりません。そのうち、何かが力を込めたのか、ずるずると引き裂かれる感じがしました。

 この時になっても痛みは感じません。血も出ません。やがて頭はふたつに裂かれ、片方ずつ、先端からニョキニョキと角が伸びはじめます。その様はちょうど、アゲハチョウの幼虫が怖い思いをした時に伸ばす突起のような感じです。しかし、わたしは恐怖を感じていたわけではないのです。その時は得体の知れない違和感だけを感じていました。

(「『ことばを失う』の人類学:わたしをフィールド・ワークする」第2回「頭が引き裂かれて角が生えてきた」、医学書院「かんかん!」[http://igs-kankan.com/article/2021/07/001354/])

 人によって違うのでしょうが、わたしの場合、疾病の後、2、3年は死を恐ろしいものだとは感じませんでした。その感覚は健康を取りもどすにつれて恐ろしいという感覚に変わっていったのです。いつから変わったのかは覚えていません。世の中の多くの人にとって、「死が恐ろしいもの」だという感覚は、それはそうだと頷(うなづ)いてもらえるものだと思います。ただ、この「死が恐ろしい」という感覚は脳塞栓(そくせん)症にかかる以前から持っていた感覚とは別物なのです。わたしの場合、半身がマヒし、さまざまな高次脳機能障害を抱えた上での「死が恐ろしい」という感覚なのです。

 わたしがこの夢を見た背景には、脳塞栓(そくせん)症発症以前のさまざまな経験がありました。まず画家ポール・ゴーギャンが描いたタヒチの人生『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』です。実物の見たことはないのですが、この哲学的な題名とともに、この絵はわたしに強烈な印象を残していました。この絵はタヒチの人びとの考える、人の一生と人生を司る神の存在、そして輪廻を象徴する川の流れです。夢の中で、わたしは川の流れに身を任せて、やがて別の生命への生まれ変わりを意味するようにチョウのような変態を遂げています。

 多くの聴覚失認者はこの夢の先の「生活世界」を語ろうとして、語るべき言葉を失いました。ちなみに「生活世界」とは、「一日は24時間」で、「地球は太陽のまわりを回っている」といった科学が記述する客観的な世界のありさまではなく、我われが主観的に経験し、手で触れ、息をする世界のことです。わたしも脳塞栓症にかかった当事者ですが、社会の多数者と共通するコミュニケーション手段は保っています。ただし、それ以後の人生には同じ経験をしたところもありますが、「別の経験」をしたことも事実です。

 「別の経験」とは、聴覚失認が軽い・重いによってもたらされたことが要素のひとつだと思います――経験豊かな言語聴覚士によれば、脳塞栓症のような脳血管障害者は、大なり小なり聴覚失認があるそうです。さらに「別の経験」とは、その人とわたしのジェンダーやライフ・ステージの違いによるところが大きいだろうし、本人の信じている理念や宗教も大きく影響しているに違いありません。

 ひょっとしてその違いが、三谷(2022)の図[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jais/24/Paper/24_25/_pdf/-char/ja]で見た「アラームを聞くことで、かえって認識する世界が曖昧になっていく」ことにつながっているのでしょうか。だとしたも、どうやって?

 いずれにしても、重い聴覚失認者の〈語られることなかった物語〉に耳を傾けることは、興味深いことのはずです。少なくとも、わたしにとって、これまで誰も聞いたことのない、あるいは「誰も聞こうとしなかった」人間存在の一面が語られのです。それは人生のメイン・ストリートを歩く人だけを人間と扱ってきた社会からは忘れられた――ある意味で見捨てられた――人間存在の生の声を聞くんだという気概でもあるのです

 わたしは人類学者です。例えばフランスの人類学者、クロード・レヴィ=ストロースが南米の先住民族の「生活世界」に興味を抱き、いっしょに住み込んで調査をしたのと同じ感覚で、重い聴覚失認者の〈語られることなかった物語〉に耳を傾けてみます。

 わたしはこれから始まる初めての航海にわくわくしています。どんな〈物語〉の世界が広がるのでしょうか。

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