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分母を知るのも一策

2023年が始まり、早くもひと月が経った。今年の1/12が終わった。2月が終わると、1/6が終わる。3月が終わると、1/4が終わる。3/12も1/4も同じなのに、分母の数字が小さくなると、時の経つ早さが一入(ひとしお)な気がする。例えばピザを分ける場合なら、3/12よりも1/4の方がお得なように錯覚する。
どちらにしても、分母が小さくなると、時間(の経つ早さ)や量の存在感は大きくなるように思われる。ぼくの数学的思考力が脆弱だからかもしれないが。

12が6や4になると、数字の上では小さくなる。減る。なくなる。
ないこと、なくなったことを意識することでかえって、あること、あったことを強く覚知する、ということの巧緻な表現として、こんな歌がある。

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
藤原定家

否定や不在が存在感を強めるなど、様々な解釈ができるだろうが、ぼくの場合は、「(花や紅葉が毎年見られるといった)当たり前は、当たり前ではないんだから、その時々に精一杯感動しようよ」と言われているような気がする。

とはいえ、人生は一回ぽっきりだからその時々を大切にしようよ、と言うは易しで、基本的に意思薄弱な人間という生き物は、その時々を、すべきと分かっていることではなく、何の糧にもならない時間をダラダラと過ごしてしまう。ぼくも、「毎朝6時台に起きる」を目標に掲げてはいるが、6時、6時30分、6時47分、と、6時台ではあるが少しずつ緩慢になっている。そもそも、6時「台」に起きるっていう目標自体がせこい。

では、どうすれば今のこの時々を大切にできるか。
無理は承知で提案するのだが、自分の余命を、つまり分母を教えてもらってはどうだろうか。(わがままばかりで本当に申し訳ないが、分母の開示は、選択制にしていただきたい。)例えば、100歳で死ぬとして、いま20歳なら、20/100、すなわち人生の1/5が終わったと考える。時の早さや、家族や友人、恋人との時間のかけがえなさ、怠惰な自分の不甲斐なさを切実に感じるのではないだろうか。

いつ死ぬか分からないから時間を大切にする、と同じくらい、分母が分かっているから、いつ死ぬか分かっていてどのくらい時間が経ったのか、どのくらい時間が残されているかが分かっているから時間を大切にする、ということもあろうかと思う。

「2023年が始まり、早くもひと月が経った。」という書き出しから、「そういえば年始のルーティンは、新年になった瞬間に母校のグラウンドでシュートを決める」という話にするつもりが、こんな着地となってしまった。

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