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【書評】「世界を知るための哲学的思考実験」

タイトルに惹かれ、目次を読んだところで大変気に入りまして購入。
読んでみると、示唆的でサイコパス的。とても面白い本だ。

テーマは、生物工学や情報通信技術の進歩が社会にもたらす変革、経済成長と格差の問題、フェイクニュースの源泉、民主主義への幻滅、来たるべき人口減少社会など。

実際に読むと思考実験は「従」で、本書の「主」たる関心は現代社会の諸論点を哲学的観点から見つめ直すことであったと思う。
ユヴァル・ノア・ハラリが歴史から紐解いたように。

初っ端からトロッコ問題

トロッコ問題 は「5人か1人か、いずれの命を優先するか」という問題ではない。形式的には同じ構造(5人か1人か、いずれの命を優先するか)をもった2つ以上の事例が対比され、その答えがちがうのをどう説明するかの哲学的命題である、とされた。

異なる「トロッコ問題」的命題4つ
1A
ブレーキの効かない汽車があり、分岐の先に1人と5人いる。
1B
犯人を出せと群衆が要求し、そうしなければ市民5人を殺す報復を行うと脅している。本当の犯人はわかっていないが、流血を避けるために無実の人を犯人にでっち上げるか否か
2A
供給薬を5粒飲めば助かる1人の患者がいる。そこに、1粒飲めば助かる5人が現れた。
2B
5人それぞれ異なる臓器が重大な病に侵されている。健康な1人から臓器を取り出して5人に移植すれば、1人死んで5人助かる。

いずれも「5人か1人か、いずれの命を優先するか」の問題に見えるが、おそらく選ぶ選択肢が違ってくる
1Aでは躊躇なく1人を選ぶのに
1Bでは1人を選ぶのは「ぞっとする」
2Aでも5人のために薬を使うべきとするいい
2Bでは5人のために1人の臓器をとりだすべきではないと感じる。
なぜ?

■この対比を説明する理論
トマス・アクィナスの「二重結果論」
意図された結果と予見された結果を区別しようというもの。
1Aは意図してないので1人の死を選ぶ
1Bは意図的なので5人の死を選ぶ
2Aは意図してないので1人の死を選ぶ
2Bは意図的なので5人の死を選ぶ
・・・これは結論有りきの議論であり、意図と予見を区別できないのでは

フィリッパ・ルース・フットの「二重義務論」
ポジテイブな義務とネガテイブな義務で区別しようというもの
1Aはネガティブな義務同士の対立 なので1人の死を選ぶ
1Bはポジティブな義務とネガティブな義務の対立なので5人の死を選ぶ
2Aはポジティブな義務同士の対立 なので1人の死を選ぶ
1Bはポジティブな義務とネガティブな義務の対立なので5人の死を選ぶ

ジュディス・ジャーヴィス・トムソン の定義した問題
1Aで
自分が内にいてスイッチで進路を変えられるとき→1人の死を選ぶ
自分が外にいてスイッチで進路を変えられるとき→1人の死を選ぶ
歩道橋で人を突き落とせば列車を止められるとき→5人の死を選ぶ
二重結果論、二重義務論、のどちらでもすべて1人の死を選ぶはずだが、
歩道橋のケースでは反対となった。
これをKillingとLettingDieという表現で、状況への介入意思で対比を説明した。

スイッチの場合1人を殺すことができても、歩道橋では選べないのをどう説明するか。
権利が功利性に優先するということ。
→功利性の観点からは5人を救うことが合理的としても、1人の生きる権利を直接奪うことはできない、と考える

さらなる問題
1Aの状況で、ループした線路だとする。
直進すれば5人が死ぬが、其の先にいる1人は助かる。
転進すれば1人が死ぬが、其の先にいる5人は助かる。
→二重結果論?二重義務論?Killing?LettingDie?

さらにさらなる問題
直進すれば5人が死ぬが
右進すれば1人が死ぬ
左進すれば自分が死ぬ
→二重結果論?二重義務論?Killing?LettingDie?

左進で自分が死ぬことを選択しないことが許容されるのが道徳(自己犠牲を要求しない)であるとするならば、右進も選択できない
結果、すべての選択肢で「1人を殺してはならない」。
状況に積極的に介入してはならない。となった。


いきなりこの結論を話すと「サイコパス」ととられるだろう。しかし思考実験ではここに到達する。
これはおそらく、格差の解消、政治の問題にも影響があるだろう。

脳が殺人をさせたのか?

被告が恐ろしい犯罪を犯したのは、自らの自由な意思によるものか。
それとも被告の脳と過去の経験がその行為を行わしめたのであって被告に選択の余地はなかったのか。

監獄に収容するのは、犯罪者が自由意思をもって反省矯正できると信じられているからだが、犯罪行為を脳の物質的状態によって説明できるようになったとすれば、犯罪の原因である脳になんらかの変更を加えない限り、犯罪がなくなることは、ない。

カントのウソ論文

人殺しに追いかけられている友人を匿った。人殺しがきて、其の友人がこの家に来ていないかと訪ねた。どう答えるべきか。
「いない」とウソをつくのが多いのではないか。ここで、カントは嘘をついてはいけないとして、論文を出しており、この論文はカント支持者も割れる議論になったそうである。

カントは ウソをつくなという義務は無条件的であって例外がゆるされない「定言命法」であり、ときと場所で変化する「仮言命法」ではないとして、ウソをつくべきではないとした。
趣旨としては「嘘をつけば、友人を救うことができる」という前提はそもそも正しいのか?である。’そもそも子供の使いのように、引き下がるのか?ウソつけ!と家探しするのではないか?其の場合、助かるのか?結果を考慮してウソをつくのがいいのかどうなのかは、決められない。

結果は「偶然」が決定する、とカントは述べた。

だからこそ、
ウソをつくなという義務の絶対性=「ウソに対するホントの先行性」
ウソをつくとき、相手にホントと受け取られる必要がある。いつもホントが前提とされているからこそ、時々ウソをつくことが有効になる。最初からウソだとみなされているとウソをついたところで誰も聞き入れない。ホントが先行する必要がある。

というのは、キリスト教文化圏で「思う」=「神に知られたのだから、ウソをついても仕方がない」=「ありのままをアウトプット」という文化が根付いているのと根源は同じかと思う。
ただし、ここ最近は「ホントの先行性」を揺るがすフェイクニュースがはびこるポスト真実の時代とも言える。

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