【濱口竜介特集】『寝ても覚めても』他者と生きていくことを克明に描いた傑作恋愛映画
はじめに
映画ファンなら誰しも映画観もしくは人生観を根底から覆すような映画に出会ったことがあるのではないだろうか。
5年前、そんな衝撃をもたらし、しばらくその映画のことしか考えられなくなった。
それが何を隠そう『寝ても覚めても』だ。
この記事では例によって、弊ブログ管理人なりの視点でその魅力に迫ってみる。
あらすじ
そんなわけあるかい!なラブストーリー
ある日の大阪で写真展に観覧に出かけていた朝子と麦の運命的な出会いからこの作品は始まる。
少年たちの悪戯のために設置された爆竹が破裂するなかお互いが見つめ合い、スローモーションでバックには4つ打ちのtofubeatsの音楽が流れる。やがてお互いに歩み寄った2人は口づけを交わす。
「んな、わけあるかい!!」
観客の総意であろうセリフを勢いよく友人の岡崎が放つ。そうまさしくそんなことあるかよな少女漫画的導入から始める作品なのだ。そして麦が蒸発した末、東京に拠点を移した朝子は全く同じ顔をした亮平と出会う。受け入れられない朝子は亮平に向かって何度も「麦やんな...」と問い詰める。もはや狂気じみた行いだが、無理もないほどそんなことあるかよな展開である。
濱口竜介作品で初めての商業映画で小説原作の本作はフィクション度合いが最も濃厚な作品かもしれない。わりとベタな恋愛模様と濱口竜介的な独特な手触りが融合した結果、唯一無二の恋愛映画になっている。思えば、同じ顔をした別の人物という設定もお得意の入れ子構造だ。ちなみに原作は朝子の主観をもって描かれるため、麦と亮平が本当の瓜二つの顔をしているかは曖昧になっている。
妖しげな麦と生真面目で優しい亮平。
同じ顔をした人間ならどちらを選ぶかというわかりやすい二項対立にグラグラ揺れ動く朝子のジェットコースター的なアクションに当時の私も振り回されたと同時に疑いようもなく心を掴まれていた。
キャストの魅力、独特な存在感
当時、本作を見た私が俳優陣の演技を見て抱いた感想は「リアルだけどなにかが変...」というものだった。セリフなんか初めからないかのごとく自分の言葉として発するのに、明らかに今まで観た映画とは違う肌触り。そのいい意味での違和感の正体かは今となっても不明だが、抑揚を抜いてセリフを何度も読み上げるいわゆる「イタリア式本読み」をプロの俳優に対して取り入れたのは本作が初めてとなる。俳優から“いい声”を引き出すために濱口監督が徹底して取り組んでいる演出法だが、キャスト陣の声質の魅力が確かに際立っている。
気持ちが入っているのかどうかよくわからない唐田えりかと東出昌大、少し嫌味な性格が現れてくる低くて少し気怠げな瀬戸康史、明らかにいい奴な山下リオ、人懐っこい渡辺大知、何もかも受け入れるかのような無条件で安心させるハスキーボイスの伊藤沙莉。当時はまだまだこれからといった俳優陣も今では日本映画を支える存在になっている。(個人的には唐田えりかはもっと活躍してほしい!)
声から離れるが、唐田えりかの大きい黒目が本当に凄まじい存在感。
原作小説では捉えどころが難しいキャラクターだったのを、この声と目で説得力ある“人間”に昇華してみせた。そしてなにより、芝居をしようとしていない感じが素晴らしい。ただその場にいることができるというか。裏を返せばその場にいるだけで無意識であろうがなかろうがシーンを成り立たせることができる。
東出昌大も負けず劣らず凄まじい。
麦の役柄は日本の映画界で他に体現できる役者が思いつかない。それでいて亮平役との演じ分け。
今作は唐田えりかと東出昌大あっての映画だと毎度鑑賞する度に痛感する。
気まずいお好み焼きパーティ
本作の中でも屈指の名シーンが朝子とマヤの自宅で描かれるお好み焼きパーティだ。通常だと何気なく描きそうなものだが、ここがかなりの密度で描かれるのだ。マヤが演じる『三人姉妹』の演劇を映すモニターからこのシーンは始まる。劇中で演劇を登場させるのは濱口竜介の常套手段。
映画の中で気まずい食事シーンがある場合は得てして傑作!という勝手な持論を持っているのだが、本作のそれはあまりに蒸気を逸した作りだ。
マヤが演じる『三姉妹』の映像が唐突に消されて、残念がる一同の中、なぜか瀬戸康史演じる串橋の様子がおかしい。何事かと問い詰めると、実は彼も演劇経験者でチェーホフの台詞を堂々と読み上げる。
「チェーホフやるならセリフを自分に引き寄せるな」と付け加えて。
ここからカメラアングルが演劇の舞台のようにも見えてくる。人の知らない一面を見て慄きながら、演技論も提唱するといういかにも濱口竜介らしいシーンだ。(串橋は後に実は英語も堪能であることもわかる)
普段取り繕っている自分とはまた違う一面を演技によって披露するという構造が興味深い。濱口竜介は表現の可能性を信じている映画作家だと思う。実生活において演技は嘘をつくときに用いられるが、濱口作品では演技を通してこそ本当のことを伝えるというシーンが多い。徹底的に演技について追求する作家ゆえに、ここをきっかけにシーンのボルテージは高まる。マヤと串橋が舞台に立っている俳優だとするなら、亮平と朝子はそこにいる観客のような立ち位置なのだが、基本的には受け身なキャラクターの朝子が串橋に反論してくるのに驚かされる。朝子はマヤの演劇を続ける姿勢を擁護し、尊敬の意を示すのだが、これが麦と結果的に別れてしまった自分に対して言い聞かせているようにも私には聞こえた。後に朝子がする重大な決断の布石が打たれているのではないだろうか。マヤの演技が串橋の演技を用いた表現を呼び起こし、さらに朝子の本音へと連鎖させる。
結局、串橋が自分の嫉妬により余計なことを言ったと無礼を詫びるのだが、生活のなかで唐突に本音が漏れ出るとき、一瞬で空気が変わってしまうことを描写している。少し恐ろしいが、結果的に4人の関係は前進していくので本音をぶつけたコミニュケーションを肯定もしていて豊かなシーンだと感じた。密度に比例してこのシーンの撮影には実際かなり時間がかかったとのこと。
他者と生きること
本作で私が最も愛さずにはいられないのは、人間の二面性を受け入れているところだ。朝子は終盤かなり大胆な決断を行う。しかも2回立て続けに。この終盤の展開が賛否両論が分かれるところなのだが、個人的には肯定するほかない。具体的には結婚間近だった亮平とマヤと串橋、春代と食事をしていたときに現れた麦と一緒にその場から抜け出してしまう。一般的に見ればそれは非難を浴びても仕方あるまい。現にマヤからは拒否反応を示されている。
ただ、この場で麦が戻ってきた場合に、それでも亮平と生きていくと固く誓う朝子は想像つきづらい。春代曰く「ぽわぽわしているように見えて、思い込んだら一直線」な朝子なのだ。運命に導かれるようにあり得ないような出会いをした2人は、あり得ないような再会を果たしたら駆け落ちするのがさだめだろうと納得してしまう。倫理から外れているかもしれないが、朝子の行動原理としては何ら破綻していない。
しかし、朝子はここで思いとどまる。この展開から思いとどまり、引き返すという展開まで描いた恋愛映画は意外とないのではないだろうか。麦の地元である、北海道まで進んでいた2人だったが、東北の事態をいまいち理解していなかった麦を見て朝子は引き返すことを決断する。成長した気でいて、正しいことをしたかったという自分を戒めるかのように。ここで東北の海と正面から対峙する朝子はとてもたくましく見える。
そこから亮平がいる大阪まで戻るのだが、映画は倫理から外れての当人にとっては切実な意志を持ったアクションがもたらされる瞬間にこそ、普通の人生には想定されていない輝きを帯びてくるものだ。大阪に到着してからのシークエンスのエモーションの高まりは筆舌に尽くし難い。当然のごとく、朝子を拒絶する亮平。その拒絶を受け入れ、許してもらわなくていい、許してもらうつもりはないから謝らないとはっきり伝える朝子は、見ようによっては開き直りに見えなくもないが潔さを感じる。
ただ顔を見て話がしたいと伝える朝子に何かを感じたのか、何も言わずに扉を開ける亮平。ベランダから見る川は水嵩を増している。まるで2人の今後の未来を暗示しているようにも見える。亮平は「きっと一生お前を信じることはない」と言い切り、「汚い川だ」と吐き捨てる。
それでも朝子はしっかり前を見据えて「でも綺麗」と言いそのまま川が流れる正面を見つめて穏やかな表情に変わっていく2人を映して映画は終わる。tofubeatsの『RIVER』も相まって素晴らしいエンディングだ。
他者と生きていくことは、それだけで予測不可能なリスクはつきまとう。そのリスクと一度対面してしまうと信じることは困難だ。
ただそこを理解した上で、信じることはできないと伝えた上で、一生過ごすことをどこか前提にしている亮平の優しさが滲み出ている。
他者と生きることは、人間の見たくないニ面性に直面する可能性が高くなる。
現に朝子は自分の衝動を信じた行動と引き換えに友人との関係性をほぼ失ったが、この映画はそれ自体を否定しない。
むしろ春代からは「人間的にはクズだけど、どこかかっこよかった」ともLINEで告げられる。
このフレーズがあるのとないのとでは、映画の風通しがまるっきり違ってくるだろう。どれだけ倫理に反していても、それを見つめる視点があることに私は何度見ても感動してしまう。
岡崎の母親から授かった言葉「大事なら大事にしたらいい」。猪突猛進に突き進んだ朝子にできることはそこからなのだと。映画は背中を押してくれる。