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アナログサウンドとともにある暮らし - 「エモい」の向こう側にある意味

はじめに

ここ数年、レコードの復活が話題で、なぜ人気が再燃しているかという理由を探るニュースや記事を目にすることが増えた。よく言われているのは、以下のようなもの。

  • 音質、音(周波数)の違い、温もり

  • アートワーク、ジャケットの大きさ、所有感

  • 手間ひま、向き合う感覚

もちろん、なにがいいと感じるかは人それぞれだが、ひとことで言ってしまうと、より心が揺さぶられて感動する、「エモい」から、ということに集約されるのではないか。特に、これまでフィジカルの音楽ソフトを買ったことがない世代の人からすると、音質うんぬんよりも、なんとなくおしゃれ、心地よい、懐かしいといった「えもいわれぬ」感覚が第一の魅力となっているのでは。
レコードやオーディオが織りなす「アナログサウンドとともにある暮らし」の魅力とは?
なんとも形容しがたいエモーショナルな部分を、少し深掘りして綴ってみたい。


レコードジャーニーを通じた自己理解

情報が溢れかえる世の中において、自分が好きなものは何なのか、自分はどういう生き方をしていきたいのか、といったことが見失いやすくなっていっている。インターネット技術の発達により、アルゴリズムが機械的に欲しい情報を提供してくれるのは便利ではあるものの、自分に最適化してくれているようで、自分で選んでいる感覚が薄く、大衆のテイストに合わせていっているようにも感じる。1日に平均2〜3時間もの時間をインターネットに使い、自分の時間という最も貴重なものをデータという形で提供することで、成り立っているサービス。自分のために最適化されて、パーソナライズされたはずのものに「自分らしさ」を感じない矛盾。データが蓄積されるにつれて、みなが同じものを求めて同質化されていく世界。自分の気持ちに正直に、ありのままの自分でいること、自分らしく生きるということが、どんどん難しくなっているように思う。

アルゴリズムから解放されて自分の好きを追求していくには、偶然の出会いを求めて、リアルな世界で行動してみることが第一だろう。リアルな経験で蓄積されたものこそが、自分だけの人生の記憶として残っていくもの。洋服でも、食べ物でも、遊びでも、自分にとって大切なものを探し、積み重ねていくことが、感性を養い、自分らしい生き方をすることにつながっているはず。暮らしを形作るさまざまな物事の中でも、音楽というものは特にパーソナルなベクトルが強く、アイデンティティと直結するものだと思う。ほぼ無限に選択できるデジタルとは違い、さまざまな制約がつきまとうアナログ。アナログレコードを暮らしに取り入れることで、より自分のものさしで選択していく必要がある。アナログサウンドは、自宅で愉しむ音楽と過ごす空間を豊かにし、好きな音と向き合う内省的な時間を演出してくれるもの。リアルなものを通じて、リアルな体験を蓄積していくことで、自分のセンスを磨き、自己をより深く理解することにつながる。思い切って本物の「自分探しの旅」に出かけるのも良いけれど、暮らしの中にレコードとオーディオというアイテムを添えることで、長い人生をかけて冒険と出会いを楽しむ旅を続けていけるような気がする。

リズムを回帰させるアナログ習慣

便利さや効率性が優先され、何事もファストで、インスタントなものに頼りがちな現代の生活。体も頭も詰め込みすぎて、立ち止まると周りに置いておかれそうで、先のことを考えると不安になってしまい、何も考えずにぼーとしたくなる時もしばしば。デジタルデトックス(解毒)という言葉が表すように、テクノロジーにより生活がハックされている状態は「中毒」でもあり、デジタルデバイスと一定の距離を保ちながら生活することが、ストレス解放になる。テクノロジーとインターネット接続が、現代社会に生きる人々の基本的なニーズとなり、もはやデジタルデバイス無しで生きることの方が難しくなっている。オフグリッドであることや、デジタルのない生活のほうが贅沢で豊かであるという認識も広まりつつある。そして、サイクルがどんどん短くなるコンテンツを大量に摂取して生きていく中で、時間感覚はどんどん加速化していっている

アナログレコードは、片面20分ほどの時間、音楽を聴いて、終わったら裏返すという手間がかかる。当たり前のことだが、1分を1分として音楽を刻んだ円盤を再生するには、その時間通りに過ごす必要がある。何かをしながらではなく、音楽に浸ることのできる時間をつくり、生活のリズムを自然な時間感覚に戻してくれるのがレコードを嗜む習慣なのだ。そして、音楽を聴く以外には特に何もしないで没頭できる時間が、「生きる速度」に対する不安を和らげてくれているのではないかと感じる。

デジタル化の必要性が声高に叫ばれ、デジタルに疎い「アナログ人間」が揶揄される時代。しかし、人間はそもそもアナログなもの。デジタルデバイスが体にしみつき、大量の情報が頭に流れ込むことで、不自然で不快な感覚を呼び起こしているような状態。そのような「非人間化」の流れに抗うように、スローライフ、マインドフルネス、チルアウト、整う(サウナ)、といったムーブメントが反動として広まってきている。

音楽は、いつの時代も心の癒しとなってきた。健康な体を保つためには、過度な量を摂取しないダイエットに加えて、加工食品ではない手作りの料理や、オーガニックな食材を取り入れたり、といった日々の食事や運動の意識が大切だ。同じように、心の健康を維持していくには、過度な情報インプットを避けたり、創造的なアウトプット活動をするなど、精神衛生を保つための情報ダイエットと脳のエクササイズが必要。そこで、音楽をより能動的に鑑賞し、空気の振動を感じ、身体感覚を伴う体験として愉しむことができるアナログレコードが、心を整えてくれるアイテムになり得る。


引き継がれて循環する文化財

そもそもレコードが誕生する以前の音楽は全て生の演奏でしか鑑賞できない、パフォーミングアーツ(公演・舞台芸術)。そして音が鳴る空気の振動を溝に記録したものがレコード。英語のRecordには「記録する」という意味があるが、ラテン語の語源はre(再び)+cord(心)を組み合わせたもので、「再び心に思い浮かべる」ことを意味してしる。

音楽とは本質的に体験であり、音楽メデイアの発展は、生の音楽体験を記録して、忠実に再現しようという試みの歴史でもある。最初に生まれたレコードは1877年にエジソンが発明したフォノグラフ(蓄音機)というもので円筒型のものだったそう。それが円盤型となり、現在のような塩化ビニール製のLPレコードが生まれるまで70年ほどを要することになる。家庭に普及するまでの間も、レコードは皆で一堂に会して音楽を楽しむためのアイテムであったはず。そして、LPレコード誕生からさらに50年ほどが経った現代では家庭という単位から、個人という単位に細分化され、手のひらサイズのデバイスに詰め込んで、画面越しに世界と繋がっている。このように、音楽と人々の関わり方は時代とともに大きく変わってきた。

本来は生身でしか体感できなかった演奏が、データ化され、いくらでも複製可能なコンテンツの一つになったことで、音楽の社会的な価値は低下してしまった。レコードというメディアは、一部の人のための嗜好品のような存在になった。音楽をはじめとした芸術文化が「精神の栄養」であり、社会インフラであるとの認識は薄くなっていった。そう言った意味で、社会における「音楽の力」は弱まっているのかもしれない。日常で、音楽に集中して鑑賞する体験や音楽を通じて人とつながる機会が減ってきていることが背景にあるのだろう。

レコードを嗜む行為や姿勢は、メディアコンテンツとしてではなくアート作品として鑑賞すること、ヴィンテージものを愛するということ、世代を超えて引き継がれていくこと、時が経たものに魅力を感じること、一点ものとの出会いを楽しむこと、自分なりの工夫を施すDIY に興じること、といった価値観を大切にすることにつながる。1982年に登場したCDは、すでに最盛期の1990年頃から30年以上が経過して、劣化が起きる「寿命30年説」がでてきている。1970年代に最盛期を迎えたレコードは、50年以上経った今でも多くが未だ再生することができるという事実は、材質の違いだけではなく、持ち主の扱い方や保管の仕方が丁寧だったからかもしれない。音楽を、スクリーン越しのビットからなる情報としてではなく、アトムからなる物質として愛でること、ストリーミングを通じて音楽を「流す」のではなく、円盤を機材の上で回転させて「再生」(再び生かす)すること。均質化されたコピーではなく、ひとつひとつの状態や環境によって異なる「生モノ」であること、時を経るごとに価値を増す「文化財」であることがレコードの魅力だと思う。


おわりに

「アナログサウンドとともにある暮らし」の 意味について、自己理解・精神衛生・文化享受の3つの側面から深掘りしてみた。自分のペースで、自覚的に生きる、音楽をアートとして愉しむ意識こそが、あえてレコードを選ぶ理由となっているように思う。

それぞれの人生に寄り添えるような、「意味のある音楽」を届けていきたい。



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