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金木犀の流儀


金木犀って、いつも、いつ頃咲いていたかしら。

小さい頃は、ご近所の庭先に、たくさんのオレンジ色の小さな花をつけた金木犀の木があって
“あー、この花からいい匂いがするのかぁ”と
胸いっぱいの空気を、鼻から勢いよく吸い込んで
ぷふぁーーーーっと吐き出しては、一種の高揚感を味わったものだった。

他の匂いとは全く違う、金木犀独特の匂い。
金木犀の匂いは、金木犀でしかない、金木犀そのもの。
匂いは、強烈にわたしの脳裏に焼き付いていて
嗅げばすぐに「金木犀だ!」とわかる。
わたしにとってのエモい香りの代表選手が金木犀、なのだけど
普段はすっかり忘れていて、金木犀のキの字も思い出さないし、匂いの詳細も思い出せない。

大人になって3回の引越しを繰り返した。
どこの街に行っても、いつも(きっと)決まった時期に
あの懐かしい金木犀の匂いがする。

でも、どの街でも金木犀の花をみたことはない。

いつもと変わらない、会社に向かう途中の、住宅街の裏道。
たまに通る夕方の散歩道。
すたすた、ちょっとだけ、早い調子で歩いている時。
自転車で走り抜けている時。
その匂いは突然、強烈にわたしの嗅覚を刺激する。
嗅覚細胞に金木犀の香り成分が到達した瞬間、反射運動でわたしは大きく鼻から息を吸い込む。
そして、あの高揚感に包まれる。


“あ、金木犀だ・・・”


それでも、そこで立ち止まることはしなくて
一瞬だけ、どこからその匂いがやってくるのか、キョロキョロして匂いの元を探すけれど、見つけた試しがない。

そして、ある地点で、その匂いはふっと立ち消えてしまう。
跡形もなく。匂いのもとは見つからないまま。


でも、あのオレンジ色の花たちは、この短い秋のほんの一瞬の間だけ
きちんとどこかに存在していて
幼少期に感じた“あの高揚感“を感じさせてくれる。


嗅覚の記憶というのは不思議だ。
視覚からの情報よりも、多くの記憶を頭の中に、
しかもいっぺんに呼び起こす。
ひとたび、その匂いの物質が、嗅覚を感知する細胞にひっついた途端
明確にイメージするよりも、もっともっと早いスピードで
脳の中にいろいろなものを溢れ出させてくる。
それが、大人になった今だから感じる、ノスタルジックな”あの高揚感“の正体なのかもしれない。

しかも、その匂いの正体を”見ることができず“
また”一瞬“しか感じられないのがいいのだ。


ふと街中の人混みを歩いていたときに
どこからともなく、昔付き合っていた恋人と同じ香水の匂いを感じたら
間違えなく、いろいろな想い出や懐かしい感情が沸き起こってくる。
その匂いの主を、振り返って探してしまうけど、見つからない。
きっと“あの人”ではないことは分かっている。匂いの記憶とともに、束の間の感傷に浸って、また前を向いて歩いていく。
でも、その匂いの元の人物が見えない方がいいし、カフェの隣の席からずっと薫ってくるのも嫌だと思う。
一瞬であり、目に見えないからこそ、ロマンチックに浸れるのだ。


先日、東急ハンズの化粧品売り場で
季節限定の金木犀の香り特集のコーナーを見つけた。

金木犀の匂いが大好きな私としては、見逃せない!と、その一角に足を止めた。
シアバターのハンドクリームにボディークリーム、ソリッドコロンやバスミルク。色々あった。
パッケージも、落ち着いた黄色のバックにオレンジの上品な金木犀の花があしらわれているデザインで、とっても素敵。試しに、ハンドクリームを手にひと塗り。強すぎない自然で甘美な花の匂いに、たちまち包まれて、思わず深く深呼吸をしてしまった。

でも、買わずにその場から立ち去ることにした。


商品としては、とてもいいものだと思ったのだけれど
自分がその匂いを、自分の意思で、常に身に纏うことができるのは、なんだか違う気がしたのだ。
金木犀の流儀に反する、というか。

街中のどこかで、しかも思いがけず、一瞬だけ匂うことができるからこそ、価値がある。
自分が予期していない時に、匂いによって、一瞬にして“あの高揚感”の渦の中に巻き込まれる。
でも、すぐに消えてしまう匂いとともに、また一瞬にして現実に引き戻される感覚が、心地いいのだ。

今年も、どこかで金木犀の匂いに出会える。
そう思うと、ちょっとワクワクしながら
少し涼しくなり始めた、秋の夕暮れの中を今日も1人歩いて帰る。


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