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【EP1】山を登る者達

ここ一年と少し、発達障害の疑いがある実弟と仕事をともにした。それは壮絶な体験だった。僕は事業者あるいは上司として彼を教育し、最終的にはうちでの正式雇用あるいは彼の独立を目標として力を尽くしたつもりだったが、結果として僕の期待はことごとく裏切られ、最後には僕自身が病んでしまったのである。

発達障害をパートナーに持つ人や上司や部下に持つ人などが心を病んでしまうというケースは多いと聞く。僕も後になって知ったのだが、発達障害者に悩まされて心を病んでしまう症状を「カサンドラ症候群」というらしい。こういう呼称が生まれるということは、つまりそれだけ報告が多いということだろう。裏を返せばこれは、潜在的な発達障害者の多さを暗に示している。

また社会にうまく溶け込めず、苦悩しながら社会生活を送っている発達障害者もたくさんいると聞く。いずれも保健士から直接聞いた話であるが、ネット上でも似たような情報を散見できる。どちらが悪いというわけではなく、カサンドラ症候群当事者は発達障害者の被害者、そして発達障害当事者は社会の被害者と見ることができそうだ。要するに社会構造上の負の連鎖なのである。

定型が作った社会ルールに順応できない発達が、定型に迷惑をかけるのは不自然なことではない。ところが発達のために社会のルールを変えるという柔軟さは皆無なのが現状社会である。あるいは人間の特性上、それは困難なことなのかもしれない。そんなわけで、定型と発達のまるでいたちごっこのようないがみ合いや責任のなすりつけ合いが生まれてしまうわけである。

この問題は、定型が発達に理解を示すだけで解決できるほど単純ではない。この問題を解決する唯一の方法は、両者がうまく棲み分けるしかないというのが僕の考えだ。

登山に話をたとえると分かりやすいかもしれない。

熟練のアルピニストやシェルパならいざ知らず、たまに山登りを楽しむ程度の一般人が、幼児や高齢者に歩幅を合わせて山を登るというのは難しいものだ。

「疲れた、抱っこして」

「もう限界、おぶってちょうだい」

道中での彼らの要求に快く応えられる人間が、果たしてどれだけいるだろうか。エベレストやK2といった果てしない頂きを目指すのならなおさら、同行者が共倒れで命を落としてしまう可能性すらある。

発達にすれば、一般人が行楽として楽しむような富士山ですらも、克服が難しい標高なのかもしれない。本来であれば、自力で制覇できない山になど足を踏み入れるべきではないだろう。ところが、山を避けて通るというのを社会が許してくれないのである。この矛盾した社会ルールに、生涯のほとんどを苦しむ発達も少なくないと聞く。

さて、疲労の中で鎖場を眼前にし「もう疲れたから抱っこして」という子ども、あるいはお年寄りの要求に、自分はどこまで応え続けられるだろうか。

「彼らは体力がないから仕方ない。助けてあげなくちゃ」というのが人情である。

しかしそのうち「もう歩けないからずっと抱っこ」「ご飯も食べさせて」「荷物も持って」となってくると、いくら気力があっても体力は次第に削られていき、気持ちだけではどうしようもなくなってしまうのは目に見えている。

いくら相手が無力な人間だとわかっていても、最後には憎しみすら覚えるかもしれない。「怠慢だ」と、彼らを一喝したくもなるだろう。

事実そこに怠慢があろうとなかろうと、どちらにしても彼らには山を登る体力など最初からないのだ。

定型からすれば「だったらこんなところに来るなよ」という話で、発達からすれば「だって社会がそれを許してくれない」という言い分。これが定型と発達の現状ではないだろうか。

人間の多様性を思えば、住みよき社会の実現は遠き夢である。


解説)

今思うと、この時の私はとにかく目の前の問題を冷静に、客観的に考えることに全力を尽くしていました。思考し整理し、発達を許し理解することに努めていたのです。

しかしそれは、私の中に発達弟に対するひどい憎しみや怒りがあったから。この原稿を書きながら、怒りなのか何なのかよくわからない感情でタイピングする手が震えたのをよく覚えています。

物事を冷静に考え前向きに解釈しないと、心が壊れてしまう──と直感していたのかもしれません。私はもともと物事を客観的に考えるよう努めるタイプではありましたが、この時は正常性バイアスに似た作用から「発達弟を肯定する方法」を無意識的に模索していました。

でなければ本当に怒りと憎しみに押しつぶされてしまいそうだったのです。

結果として、冷静で客観的な思考はカサンドラ克服に必要だったと感じています。もしこの時、怒りに身を任せて弟を非難していたら──? きっと私は今も過去のトラウマを引きずり、どっぷりとカサンドラ魔女の養分になっていたでしょう。

感情のコントロールなどとてもできない状態でしたが、それを可能にしたのが「書く」という行為でした。

もし気持ちのやり場がなかったり不安定な心に押しつぶされそうになったりしたときは、ぜひ自分の気持ちや思考をノートやパソコンなどに書き出してみてください。簡単な作業なのに驚くほどの発散効果があるのでオススメです。

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