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うんちマジック

なぜか僕は、うんちのことをときどき考える。うんちという存在は僕を惹きつける。真面目にうんちに向き合う、というとなんだかおかしいけど、たぶん僕は80才になってもうんちから離れることはできないだろう。

ある日、お腹が減ってコンビニに行った。ずらっと棚に並んだあらゆる種類の食べものを品定めしていたとき、ふと思った。ここに並んでいるどの食べ物を選んで食べたとしても、それは最後にはうんちとなる、ということだ。ラーメンを食べても、パンを食べても、うんちという物質にしてしまう僕らの体。僕はコンビニの弁当の棚の前に突っ立ったまま、うんちを作り出す自分の体に驚いた。それは、100人中100人が知っている当たり前のことだけど。僕には当たり前のことを改めて考えて、改めて驚く、という性質がある。

ある物質を何か別の物質に変換するということは、手品のようだ。背の高い黒い帽子を被ったマジシャンが、丸いテーブルの上に四角い箱を意味ありげに置き、箱の中には何も入っていないことを観客に確認させる。観客はこれから一体何が起こるのだろうと箱から目を離さない。マジシャンはニヤリとしながら、箱の中に一輪の白い花を入れて箱を閉じる。何やら呪文のようなものをブツブツと唱えて、箱を再び開けるとそこには花は無くて、一羽のハトが飛び立つ。

僕はうんちを作り出す自分の体のことを手品の箱と同じだと思う。箱の中に花を入れたら、ハトは出てくるはずはない。マジシャンだけが知っているその謎のプロセス。観客は驚くしかない。

だけど今の時代、科学がそのうんちマジックのプロセスをすでに種明かししているから、そのマジックに驚く観客はもうほとんどいないかもしれない。でも、種明かしをされたマジックだとしても、そのプロセスがあまりに複雑で巧妙だと、やっぱり神秘的には違いない、と思う。うんちマジックはその種がわかっていたとしても何度でも驚いてしまう、永遠の傑作マジック。

その日、僕はコンビニの棚の前でお腹のあたりに手を当てて、おそらくこの辺りに手品の箱があるんだな、と確認した。棚から担々麺を手に取り、驚異のうんちマジックによって、明日にはうんちになるんだろうと想像しながらレジに並んだ。


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