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ニワカ学生運動論 「二段階『運動』論」編

注意

  1. この記事を書いたのは運動の理論も運動史も「ニワカ」なその辺のミーハー大学生なので、話半分で読んでほしい

  2. ここに書くことは、あくまで私の運動についての自戒である。他者の運動にああしろこうしろと言う意図は一切ない。

  3. この記事は「ニワカ学生運動論」の前編にあたる。後編「『可能と思われていること』論」との続き物になっているので、ぜひ読んでほしい。


はじめに――安田講堂に響く「インターナショナル」――

 去る6月21日夜、東大本郷キャンパス、安田講堂前に「インターナショナル」――「革命歌」と知られる――のうたごえが響いた。果たして何年、いや何十年ぶりの事態だろうか。
 この時の安田講堂前は「常ならぬ」状態にあった。学費値上げに関する「総長対話」のパブリックビューイングが行われ、その後不毛かつ侮辱的であった総長対話に対する怒りもあってか会場の「ボルテージ」はいつにもなく高まっていたようだ。

その中で「自然発生的に※1」歌われた(らしい)インターナショナルであるが、当然(?)波紋を呼ぶことになった。

 「結局『サヨク』だったんじゃないか」「『ノンポリ』から引かれてしまうのではないか」と賛否が分かれる「インターナショナル」歌唱であったが、私もこれについては否定的に見ている。というのも、私に言わせればインターナショナルは「時期早々」すぎたのである。
 インターナショナル自体を悪く言っているわけではない。ただ、そんな「政治」性、「党派」性マシマシのアクションを起こすにはまだ「下地」が整っていなかったのだ。

 学生運動冬の時代たる今、我々運動家はどう運動していくのか。ヒントは毛沢東(の方法論)にある。「現代の大学シーンは言わば『封建主義時代』にある」――本稿は、学生運動の現在の苦境と、その「復興」について、毛沢東の「二段階革命論」を援用して論じる。

※1 https://x.com/no_raise_ut/status/1804186957645590763

毛沢東の「二段階革命論」

 インターナショナルが「時期早々」とか言いつつさっそく毛沢東を引用して政治性マシマシというオマエモナー案件ではあるのだが、分かりやすく、かつ(どうせこういうのに詳しい)読者諸氏にも共通の文脈であるとおもうので引かせてもらう。毛沢東は、日中戦争真っ只中(だし一時対日共闘中とはいえ国共内戦真っ只中)の1940年に出版された『新民主主義論』においてこう主張した。

きわめてあきらかなように、現在の中国社会の性質が植民地・半植民地・半封建のものである以上、中国革命はどうしても二つの段どりにわかれなければならない。その第一歩は、この植民地・半植民地・半封建の社会形態を変えて、独立した民主主義の社会にすることである。第二歩は、革命をさらに発展させて、社会主義の社会をうちたてることである。中国の現在の革命はこの第一歩をあゆんでいる。
(略)
この中国革命の第一段階(それはまた多くの小段階にわかれる)は、その社会的性質からいうと、新しい型のブルジョア(注:≒資本主義的)民主主義革命であって(略)それから、さらにこれを第二の段階に発展させて、中国の社会主義社会を樹立するのである。

毛沢東『新民主主義論』第4章
https://web.archive.org/web/20100421062353/http://www.geocities.jp/maotext001/maosen-2/maosen-2-468.html

すなわち、現在(1940年時点)の中国は資本主義通り越して(半)封建主義の社会なので、社会主義社会を作る前にとりあえずその前段階となる資本主義社会を作らないと何も始まらないよ!ということである。社会主義革命の下地(発展した資本主義)自体がないので、まずその下地を整えようと要求されているという内容だ。
 まあ要するに「何事にも段階があるよ」という話しだ(over-simplification)。

「二段階『運動』論」――学生運動シーンへの援用――

今は「封建主義時代」

 さて、やっと本題に入る。毛沢東は、当時の中国社会が資本主義通り越して(半)封建主義であると指摘した。翻って、現代日本の学生運動シーンはどうか。先に確認したように、東大ではインターナショナル歌ったくらいで「極左」呼ばわりされたり、弊学(阪大)でもちょっとスタンディングやってシュプレヒコール上げたくらいで「うるさい」「こわい」と言われたりする状況である(詳細は↓の記事にて)。

学生運動は「冬の時代」、あるいは、毛沢東の「封建主義→資本主義→社会主義」の図式で言えば「封建主義」的な状況にあると言えるだろう。要するに、オーソドックスな運動――デモとか演説とか「インターナショナル」とか――を「いきなり」やっても、そもそも「彼ら」にはまともに聞かれないのである。運動で影響を与えたい対象である「彼ら(いわゆる「ノンポリ」、「普通」の学生)」は、「セイジ」を感じたらその時点で五感を遮断し、運動の主張内容に耳を傾けないのである。

 外山恒一氏は『政治活動入門』において「日本の学生運動がほぼ消滅したのは実は90年代前半(p31)」としている。さらに、(弊学に限った話ではあるが)90年代以降も細々と続いていた運動も、「コロナ禍」の断絶によりほとんど絶えてしまった。
 コロナ禍以前は、弊学においても、小峰ひずみ氏らが「アジール」と言って週1で鍋をやったり、「学祭粉砕」を唱えて学園祭に御輿を担いで突撃したりという運動を展開していたと聞くが、コロナ禍以後に入学した私はそのようなものの跡すら見たことがない(「大阪大学を畑にする会」はコロナ禍以後の阪大における運動と捉えられるが、これは秘密組織的かつゲリラ活動的であり、「大衆運動」的ではない)。

 であれば、大学において運動をするのであれば、まず「資本主義社会」、すなわち90年代以前、せめてコロナ禍以前の大学の「騒がしさ」(アキノリ将軍未満氏の言うところの「バイブス」)を回復しなければいけない。これが「二段階『運動』論」で言うところの「第一段階」である。つまり、学生運動みたいなものの存在自体がフツーの学生に許容される(「なんかやってるなー、まあ聞いてやるか」くらいのノリ)風土を回復する必要があるのだ。要するに学生運動が効果を持とうと思えばまずマジョリティの中に学生自治の精神を抱かせないといけないということだ。それから初めて、「第二段階」たる「ちゃんとした運動」――二段階革命論で言うところの「社会主義革命」――が可能なのだ。

具体的な方法論

 じゃあ具体的に何をどうすればええねんという話になると思う。ので、私自身の「第一段階」における指針とその実践例を挙げてみたいと思う。まあそうは言ってもミーハー大学生の運動ごっこなので、話半分で読んでほしい。

①「セイジ」性・「トウハ」性は出さないようにする

 「社会に不満があるなら自分を変えろ」のような(フーコーの言うところの)「規律訓練型権力」と、「自治空間のないビルキャンパス」のような「環境管理型権力」と「コロナ規制」のトリプルパンチで骨抜きにされた現代日本の大学シーンにおいては、少しでも「セイジ」(≠「政治」)っぽさや「トウハ」(≠「党派」)っぽさを感じさせてしまえば過半数に引かれるわ、叩きのネタにされるわでロクなことがない※2。
 
なので、土壌整備である「第一段階」の運動においては、「下地を整える」という目的に終始し、たとえ盛り上がったとしても「ついでにこの主張もしてみよう」みたいな欲をかかないことだ。

※2 ここでの「セイジ」「トウハ」は、マジョリティから見た時の印象の話であり、実際の運動の姿(漢字の「政治」「党派」)とは異なる。

 ささやかな実践例を出してみようと思う。今年(24年)の7/6に中止になった学祭(夏まつり)の代わりにやりたいと(何も考えずに)言ってみたら思ったより大事になった自主学祭「個人夏まつり(通称)」である。

 「個人夏まつり」と言っても、夏まつりがあったはずの当日に私がキャンパスに座り込み的に滞在して、「夏まつりをしている」と言い張るくらいのノリで考えていたのだが、想定外の事態が発生した。「出展したい」という個人や団体が現れてしまったのだ。しかも、その多くがいわゆる「セイジ」とは縁遠そうな人々であった。
 この想定外かつ好ましい事態の進展を受け、今後どう繋げていこうかと思考を重ねた末にたどり着いたのが「二段階『運動』論」であったりするが、私は「個人夏まつり」の目標を①「『バイブス』を高めること」と、②「(ちゃんと開催することにより)学生自治実践の実績を作る」ことの二点に絞り、「個人夏まつり」においてはそれに反する/逸脱することはしないように決めている。
 
①については、この機会にと「個人夏まつり」でデモとかタテカン掲示とかやるのは「早急」であるし「場違い」である。そして②についても、「自治空間としてのキャンパスを取り戻すのだ」とか言ってキャンパスで強行開催しようとして(本当はそうしたいんだけど)、中止に追い込まれたり、そうでなくても当局の介入により出展者や参加者が離れてしまえば「実績を作る」どころか「敗北」になってしまう。なので、ちゃんと別所に会場を確保して合法的に開催できるようにしている。

②「面白く」する

 「セイジへの忌避」を乗り越える一つの架け橋は「面白さ」である。現代日本において、若者は「面白い」ものを見ると写真を撮り、SNSにアップすう。たとえばこの拙作タテカンのように。

写真を撮られた拙作タテカン 「TOEFL対策」を謳いながら単純作業であり、しかも「タイムアタック」みたいなこなし方に対して「不誠実学習」と警告を送るような教材「eラーニング」を揶揄したもの

 このタテカンは、ほぼ全学生から嫌われている「eラーニング」ならば叩いても誰も反感は持たない(「セイジ」にはならない)だろうと描いたもので、①の要素もある。
 だがそれ以上に、この時流行っていたミーム「鬼畜ロボット」を盛り込み、「面白さ」を持たせるようにしてみた。実直に、「eラーニングを弾劾する」とか描いたタテカンは(それはそれで面白いかもしれないが)「セイジ」と思われて忌避されるだろう。しかし、そこに「面白さ」を盛り込めば、「SNSに上げてやろう」と写真を撮る者も現れるだろう。そして、少なくとも撮影者が写真を撮ろうとタテカンをスマホの画面に収めている時、彼は確かにタテカンの内容と、「タテカンが立っている」という「逸脱」を「認識」するのである。「面白さ」が、「対話可能性」(内容まで認識してもらえる)を生むのだ。

 この文脈において、東大だめライフ氏が学費値上げ反対運動にてかき氷提供を行ったことは素晴らしい取り組みであると思う。

かき氷は、「面白い」し「対話可能性」も持つものでとても良い試みだと思う。

さいごに――後編に続く――

 長々と書いてきたが、要するに「今日日学生運動するにはまず『下地』が必要」「政治性を出すにはまだ『時期早々』である」という話だ。誤解してほしくないが、「木陰だめライフ宣言」に書いたように、私は「個人行動主義者」なので、他者の運動に「こうすべき」「こうしないべき」と口出しするつもりはない。ここまで書いたことは、あくまで私の運動についての自戒である。

 後編「『可能なこと』論」編では、「学生自治」を促進するにはどうすればいいのかを「可能と思われていること」・「実際に可能なこと」の乖離から述べ、更に私がこういうことをしている根本的な動機についても明かす。

後編:


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