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【日本一バカで美しい旅】国道1号踏破 #0 プロローグ


ふいに

 オーストラリア。そう聞いてぼくたちは何を思い浮かべるだろう?
エアーズロック、オペラハウス、あるいはカンガルーやコアラ、サーフィン……などなど。

 もちろん全部正しい。じゃあ、その、オーストラリアといえば、みたいなものってはたしていくつあるんだろう?

 決して20や30じゃないはず。もっと多い。100とか1000とか?もっと?たぶんだけど、具体的に数えようとしたら数えきれない。無限にある、ともいえるかもしれない。

 
 じゃあ、逆にそうゆう、オーストラリアらしさ、みたいなものをぜんぶ取り払ったとしたら、そこには何が残るんだろう?オーストラリアそのものっていうか、そこにある本質、みたいなもの?

 そう言われても、なんかしっくりこないし、あれこれ考えているうちに、そういう意味で、そもそもオーストラリアって本当に存在してるのかな?なんて変なことを考えるようになってしまった。

「あたりまえ」を疑ってみた

 「あたりまえ」にしたがって言えば、その答えは、Yes. 以外に考えられない。だって、実際にあるじゃんって。けど、さっきオーストラリアについてイメージしたものは、けっして自分の目や耳でじっさいに感じたものじゃない。誰かのおしゃれなVlogとかインスタの投稿とか、自分じゃない、別の誰かの目や耳というフィルターを通して間接的に見聞きしたものにすぎない。


 実際にオーストラリアまで飛行機に乗って行けばあるって言えるんだろうか?
 でも、そのときに乗った飛行機、ほんとに南の空まで飛んでいってたんだろうか?飛行機の窓からみえるだろう景色も、ほんとの空や雲や星じゃなくて、映画みたいな、すごくリアルな映像で、乗客の自分はそれを見てああ自分は空を駆けているんだなって、だまされているかもしれない。

 そんなのはしょせん、屁理屈かもしれない。いや、そうだ。

 けど、じゃあ、オーストラリアは確実にある!ってカンペキに証明できる人なんていないのもまた事実。

「バカだけど美しい」旅へ

 いや、カンペキに証明する方法がひとつだけある。それは、じっさいに自分の目で耳でそこに到るまでの道をたしかめていくこと。


 けど、まあさすがにオーストラリアまで泳いでいくわけにもいかない。


 そこでふと思いだしたのが、国道1号の存在だった。小さいころ、日曜の買い物帰りの渋滞のなか、助手席にすわった母から、この道は国道1号って言ってずうっと先の、東京っていうところまで続いているのよ、と教わったことがあった。みんなそこを目指して車を走らせているから、この道はこんなに混んでいるのだ、と。


 東京っていう、テレビや映画でしか見たことのない、ウワサのその大都会に、縁もゆかりもなかった田舎者の自分には、それがすごく理にかなっていないことに感じられて、母を信じはしなかった。それどころか、年の割に大人びていた、というか、ませていたそのころの自分は、きっと母は、幼子が渋滞に機嫌をわるくしないように、そのくらいの年の子どもがワクワクするようなちょっとした方便でもでっちあげることで、母親としての務めを果たそうとしているのだろう、なんて考えていた。

 

 けれど、その母の言葉はけっしてウソではなかった。どうやら国道1号と名のついた一続きの道は、ほんとうにはるか遠くの街・東京まで、途切れることなく続いているらしい。


 …………ほんとうなのだろうか?いつしか、年相応に、理屈っぽい、というか皮肉屋だ、と言われるようになった自分は、きっと母は、まだまだ幼い、自分の子どもが「あたりまえ」をきちんとわきまえることができるように、ちょっとした常識を押しつけることで、きちんとした「母親」でいようとしていたんだろう、なんて考えるようになった。


 そんな「母親」とか、常識とかいったものに歯向かうような思いもあったんだろうと今になって思う。とにかく、そんなわけで、その「あたりまえ」を一旦わすれて、あのころに、自分のなかに、そして自分の周りにあるものがまだ渋滞しきっていなかったころに、もう一度自分を立ち返らせてみたい、という欲求に駆られるようになった。
 そのころの自分は幼くて、常識も何も知らないバカだったけど、その心は、自分史上いちばん純粋で、いちばん美しかった。
 けど、頭や、からだが大人に近づくにつれて、そうした心をどこかに放り捨ててしまった自分がいて、その心はもうずっと遠くの方に行ってしまったように感じていた。それこそほんとうに、この田舎町から遠くはなれた東京ぐらいまで行かないと、どうしても取り戻すことができない、と思うくらいに。

はじまりは、素朴な疑問だった

 
 ということで、国道1号を、西の端は大阪・梅田から、東の端は大都会東京・日本橋まで、実際に自分の目で耳で旅をする決心をした、というわけだ。距離にして500キロをゆうに超える道のりを徒歩ですすんでいく。


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