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街を抜けて、物語は起ち上がる・村上春樹

村上春樹さんの『街とその不確かな壁』を読んだので、考えたことなどを少し。
細かな内容に触れるので、未読の方はご注意ください。


◆街の概観

 わずかな隙間さえない堅牢な煉瓦の壁に囲まれた街は、主人公が十七歳だったとき、心を通わせていた一つ年下の少女とともに作り上げたものだ。
 街を横切るように川が流れていて、美しい三本の橋がかかり、中洲には川柳が繁る。広場にある時計台には針がなく、街に一か所だけある門では門衛が目を光らせ、日々出入りが許されているのは一角獣たちだけ……。
 そんな街を今、四十代になった主人公は訪れている。
 街に入ることを特別に許され、門衛によって影を断ち切られ、図書館で古い夢を読む「夢読み」となる。
 図書館には、かつて心を通わせた少女が当時のままの姿でいる。

 広場の時計台に針がないように、街の中で時間は意味を持たない。
 時は流れているものの、「蓄積」はしないからだ。過去という概念が欠落していると言ってもいいかもしれない。
 街を流れる時間は、街を流れる川の水によく似ている。
 川にとって街は通過点に過ぎず、常に一定量の水を存在させるものの、同じ水がその場に留まることはない。街を流れる時間もまた、一定量が存在し、常に更新されるが、過ぎ去った時間はもはや役割を持たない。
 街にとって時間は、川の水と同様に質的な意味を持たず、定量的な存在でしかない。
 ただ、川の流れは街の西端で、底知れない「溜まり」を作っている。これは一見、時間が本来持つべき蓄積(記憶)を、代わりに担っているかのようにも見える。

 この街はいったい何なのか。

 読み進んでいくと、主人公の意識のずっと奥底にある、固く閉ざされた場所であるらしいことがわかってくる。
 主人公が十代だったときに深く心を通わせた少女は、ある日突然連絡を絶ってしまう。その大きすぎる喪失が、このような場所を主人公の中に作ったことがわかる。
 街は、人間に対しては固く閉ざされているが、それ以外の存在に対しては、必ずしも閉ざされているとは言えない。
 川の流れがまず一つ。これは、東の壁を潜り抜けて街に入り込み、西の端で溜まりを作る。溜まりの底はおそらく、外の世界に通じている。
 そして一角獣。彼らは門番が開閉する門を通って、朝の決まった時間に街に入り、夕方の決まった時間に外へ出ていく。犬や猫といった現実的な生き物は一切いないのに、非現実的な生き物である一角獣だけは、日中をずっと街の中で過ごしている。これは、一角獣そのものが夢であることを意味しているのかもしれない。街の中で暮らす人々は夢を見ない。でも街の外で眠る一角獣は、朝になると街に夢を運び込む。
 街に入ることも出ることも、人間には許されない。でも主人公だけは、街を作った当人であるためか、入ることが許される。ただ、街で暮らし続けるためには、影を切り捨てなければならない。街で暮らす人々に影はない。だから主人公の影も、門衛によって切り離されてしまう。
 これが意味するところは、おそらく記憶だろう。
 時間が意味を持たない街の中では、記憶は記憶として存在することができない。記憶とは、時間の経過という概念なしには存在することができないからだ。街に音楽がないのも同じ理由で、音楽は、時間の経過なしには聴くことができない。流れる音が記憶として残るからこそ、音楽は音楽として存在する。ひとつ前の音、そのひとつ前の音、すべてを記憶できるからこそ旋律は成り立つ。
 認識と記憶。
 つまり、現在と過去。あるいは現在と記憶。この二つがそろった形で、わたしたちは常に存在している。時間の流れを後ろに従えていると言ってもいい。足元に常に、影を従えるように。
 本体と繋がっている影は、常に本体から記憶の供給を受けている。これは影の存在理由そのもので、影が影として存在するための、エネルギー源であるとも言える。だから、本体から切り離された影は長く生きることができない。新しい記憶がもはや供給されないからだ。
 でも第一部の終わりで主人公と影が溜まりを目指すとき、影を背負うことで本体と影の接触は再び起こり、記憶が供給され、影は生気を取り戻す。

◆物語の生まれる場所

「わたしたちは二人とも、ただの誰かの影に過ぎないのよ」
 第二部の終わりで少女は、主人公に向かってそんな示唆的な言葉を口にする。
 それを聞いた主人公ははっとする。

 第二部を読み進めるうちに、いくつもの違和感と出会う。
 第二部はそもそも、大きな違和感からスタートするのだ。街の外に出たのは影のはずなのに、何故街に残ったはずの主人公が、「元の場所」に戻って生活を再開しているのか。
 長く務めた会社を辞め、福島県の山間部にある町立図書館で働き始める主人公は、壁に囲まれた街での暮らしを記憶している。「夢読み」として日々古い夢を読み続けた図書館の様子も、大切な存在である少女と交わした会話も、自身が寝起きをしていた部屋も、街を流れる川の風景も、すべてを記憶している。それなのに、どんな靴を履いていたかという、些細な記憶がない。
 移り住んだ町は小さな田舎町のはずなのに、突然やって来た主人公を気に留める住人はほとんどいない。
 町立図書館の前館長である子易氏は、会う前から主人公を知っていたかのようだ。

 第二部の終わりが近づくにつれ、主人公だと思っていた人物は、実は影ではないかと読み手は気づき始めることになる。最初に気づいたのはおそらく子易氏だろう。そして主人公(影)自身も、第二部の終わりで、夢に現れた少女の示唆的な言葉によって気づくことになる。
 不完全とも言える記憶は、第一部の終わりで主人公(本体)に背負われた際、一時的な接触によって供給されたものだったのだ。

 街とはいったい何なのか。

 ここでもう一度、この疑問に立ち返る。
 主人公の意識の奥底にある、固く閉ざされた場所。
 閉ざされてはいるが、常に何かが入り込み、何かが出てゆく場所でもある。つまり、主人公の心の奥底にあって街は、何かを取り込み、何かを吐き出す機能を持っていると考えればいいだろうか。

 本作の前身とも言える『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では、主人公の意識の奥底にある認識回路(世界の終わり)が、現実として認識されている世界(ハードボイルド・ワンダーランド)を作り出していた。しかし、認識回路が勝手に改ざんされたことによって、認識される世界も変わり始めてしまう。この認識回路(世界の終わり)がまさに壁に囲まれた街だったわけだが、これは、物語を生み出す回路だとも考えることができるだろう。

 同じように、本作の街も物語を生み出す機能を持っていると考えるなら、第二部で出会ういくつかの違和感は回収されていく。
 街の中に取り込まれた事物は、ある程度の時間をかけて、何らかの違う形、あるいは認識となって、やがては街の外へと出てゆく。川の流れがそれを象徴している。川の流れは西の端で深い溜まりを作り、落ちれば二度と浮かび上がることはできない。ここは街の出口であると同時に、物語が吐き出される場所でもある。
 高い壁に囲まれた街は物語が作られる場所であり、第二部で「元の場所」として語られているのは、街が吐き出した物語だ。溜まりを抜けて街を出るということはつまり、物語の構成要素になるということだろう。だから溜まりを抜けた影は、元の場所に戻って生活を再開するという、いかにも現実的な(あるいは現実として認識されている)物語の主人公になっている。
 そこかしこに違和感があるのは、「元の場所」が本物の現実ではなく、街が生み出した物語だからだ。

 そして生み出された物語はやがて、フィードバックするかのように、壁の内側へと、あるいは壁そのものへと影響を及ぼし始める。
 街にとどまっている主人公は、物語の中の少年に耳をかまれることによって、本来いるべきではない場所に自分がいるのだと気づき始める。
 街にとどまった主人公は、本当の意味で街を出る必要がある。
 溜まりを抜けるのではない。堅牢な煉瓦の壁を抜ける。平行移動とも言えるこの移動が、本来果たされるべき帰還だ。
 街を出るにあたって少年は主人公に、自分自身の分身である影を強く信じればいいと言う。

◆繰り返されるモチーフ

「真実というのは一つの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。」
 それが物語の神髄ではないかと思うと、作者はあとがきの最後に書いている。
『騎士団長殺し』を読んだとき、絵を描くことと、小説を書くことはよく似ていると何度も思った。同じモチーフを繰り返し描くということは、何人もの画家が行っている。
 鴨井玲は繰り返し同じ教会を描き、そのたびに教会は宙に浮き、回転し、姿を変え続けた。
 小山田二郎は「鳥女」というタイトルの絵を何枚も描き、その都度違う「鳥女」の姿を描き続けた。
『街と、その不確かな壁』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、そして『街とその不確かな壁』と同じモチーフは書かれたが、もしかしたらこのあとも、「街」は書かれるのかもしれない。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「街」と、本作の「街」で最も大きく違うのは、図書館にある古い夢の形だろう。前者では一角獣の頭骨だったものが、後者では卵のような形になっている。
 これはとても大きな違いではないかと感じている。「街」の機能を考えるとき、これはとても大きな変化となったはずだ。
 物語が書かれる限り、「街」は作者の中に存在する。「街」なくしては、物語は生まれてくることができない。
 一つの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。
 これはまさに、「街」を流れる川の水であり、「街」を支える時間の在り方でもあるだろう。
 堅牢ではあるが不確かな壁に囲まれた街は、常に何かを取り込み、何かを吐き出している。

© 2023 Hiiragi Machii





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