見出し画像

統合失調症を発症した時

……なんだか周りの人たちが私に怒っている。

突然、私は職場でそう思い始めた。
周りの人たちがたてる音が私への怒りのように感じたのだ。
人間の笑顔が張り付いたもののように思えて、怖かった。
街行く人たち皆が私を指差して笑っているように思った。

それを一日我慢して、疲れて、また次の日にホームで電車を待った。
電車が来る直前、私にあるテレパシーが伝わってきた。

「———こっちに行ったら楽になれるよ———」

こっちとは、線路側の方である。
線路の中に足を引っ張られるような感覚に抵抗して私は踏ん張っていた。

無事、職場に着くことは出来たものの、その時の記憶はない。
恐らく、ゾンビのように無心で仕事をこなしていたのだろう。

気付いたら、家の白い天井を見て泣いていた。

ご飯に呼ばれても、体が石のようになって動くことが出来ず、何も食べることが出来なかった。

さすがに異常を感じた家族が私に「明日病院へ行こう」と言ってきた。
私は人目に晒されたり怖い思いをしたくない一心で病院に行った。

その時に診断されたのが、「統合失調症」である。
それ以前から、心の不調で精神科には通っていたものの、正式に診断名を出されたのは何度も病院に通っていたちょうどその時だったのだ。

その後の記憶はほとんどない。
家族が助けてくれたこと、青信号と赤信号を見間違えて交通事故を起こしそうになったこと、サイレンの音が二重に聞こえて気持ち悪かったことだけ覚えている。

ただ、食事をして薬を飲んで寝るだけの生活がずっと続いていたが、診断後、1ヶ月ほどした頃から少しずつ記憶が定かになっている。

病気の発症とは突然来るものである。
前触れもあるかもしれないが、気付けないことだってある。

そして、精神疾患の症状は人それぞれ。
ある人から見れば、突然人が変わったように思えるだろう。
外に出られなくなることも大いにある。

私は精神障害当事者にも、その人たちを支える家族のことでも、何か事件を見る度に胸を痛める。
私は当事者として、どれだけ家族を苦しめたか、罪責感に苛まれるのだ。
自分自身が憎くて仕方がない。
それでも、私の家族は私に生きていてほしいから私を助けてくれる。
ならば、生きる意味をそこに見出しても良いと私は思う。
私を助けてくださる人たちのゆえに生きる。

私がクリスチャンであるのは、私が生きる意味に神を見出したからである。
イエス・キリストが十字架にかかったのは、私たちの罪を負うため、私たちの命を救うためだと聖書は語る。

療養生活を送る中で私は放蕩していた。
ゲームや配信の視聴者から作られたグループでどうでも良い会話をする。
それだけでは、私の心は救われなかった。

はじめは聖書を読んでも意味が分からなかった。
私は神の存在を考えたこともなかった。
ただ、次の聖書の言葉を読んだ時に、神に人格があって、人を愛している存在だと知ったのだ。

"すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」"

マルコの福音書 1章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私にはこの言葉だけで十分だった。
統合失調症の症状によって既に人を信じることが出来なくなっていた私にとって、変わることのない神が私のことを愛して喜ぶだけで、私がイエス・キリストを信じる理由は十分だった。

そして私は、洗礼を受けて、クリスチャンとして、病床の中で聖書を読み、お祈りをして生きている。

深夜に眠れなくて思い出したことである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?