「健忘」が生む信仰、「信仰」から生まれる「信頼関係」
私は今、「健忘」という症状に悩まされています。
それが、統合失調症の症状から出たものか、お薬の副作用かは不明です。
とにかく、物忘れがひどいです。
このことに気付いたのは、今年に入ってからでした。
まず、会話中に単語をド忘れすることが急に増えたような気がしました。かなり長い時間考えても、話の内容に適切な単語が思い浮かばず、単語を思い出すことを諦めることが多くなりました。
次に、家族との記憶にすれ違いや誤解が生まれやすくなりました。
家族が覚えていることと、私が覚えていることが食い違っていたり、自分が一度話した内容を何度も話してしまうことが増えました。
今年になって、この二つの物忘れの症状にとても困らされてきました。
はじめはこの症状を私自身が認めることが出来ず。病識が無い状態でいました。
しかしながら、何度も何度も健忘を繰り返す内に、ついに私の心が折れて、健忘であることを認めざるを得なかったのです。
このことで、主に祈り心を持った時、私は自分の記憶というものが信頼出来なくなりました。
夫や家族の記憶の方が正しいのではないか、と認められるようになってきたのです。
それが、「健忘」が生んだ「信仰」の第一歩でした。
私は自分自身が信頼出来なかった故に、今まで自分が間違っていないと主張する心が砕けてしまったのです。
もちろん、気持ちの共有というのは私もします。
ですが、今の私に出来るのはそれだけです。
私が相手と話をする時は、相手のことを信じ、相手の話を聞くしか道はなくなったのです。
それは、人間不信だった私にとっては大きなショックでした。
そうして、私は主にあって自分の主張を捨て始め、家族や他者の言葉を飲み込むようになっていっています。
今週の主日礼拝の説教では次のようなことが語られていました。
「認めることは信じることである。
信じることは認めることである。」
私が自分の弱さを認めた時に、初めてキリストを信じて福音の言葉に耳を傾けるように、相手を信じることを学んでいます。
そしてこのことを考えた時に、今日思い出したみことばがあります。
まさに、「健忘」という己の弱さが「信仰」を生んだのです。
だからこそ、「弱い時に強い」という言葉が身に沁みます。
「信仰」が建て上げられるために、私は徹底的に弱くならなければならないほどの人間だったのです。
この「信仰」が作り上げられた時に、相手への「信頼関係」が築き上げられました。
相手の記憶や言葉に頼るしかなくなったため、相手を信じる、相手の言葉を聞く、自分を疑うことに私は開かれていきました。
話す相手の言葉をよく聞いて頷く。自分の主張は後にする。
謙遜さを身に付けさせられました。
弱さの内に頭を低くすることを学び、実践せざるを得なかった時に、私が自分ではなく、相手を信じて自分の過ちを認めることが少しずつですが、出来るようになってきました。
このような私に起こった一連の出来事を通して、どれだけ私が「自分が正しい、相手が間違っている」と思って高慢になっていたということを思い知らされるのです。
そうして、私の心は悔い改めて、キリストに向こうとしていくのです。
キリストを信じたら、問題が解決するとか、心身が癒されるとか、そのような期待を抱くこともあると思います。
ですが、主は私自身の弱さを認めて悲しみに暮れた時に、「あなたは幸い(祝福されています)です」と言われるお方でもあります。
そして、主はこのようなことでしか心を打ち砕かれることのない罪人である私を、「招いて悔い改めさせるために来た」お方であることを思い出していくのです。
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