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一人の牧者から学ぶ

今回は少し変わった視点からの話です。
私自身、私に福音を伝える人は一人でいいという確信を内に秘めておりました。
それは、自分にとって当たり前のことだったので、今まで記事に書いたことはありませんでした。

ですが、十数年以上続いている私たちの教会、受洗者を出して、教会員がこの教会は神の召しを受けていると証することの出来る私たちの教会を、神に仕えるために何も捨てていない人が、しかも、数回しか私たちの教会の礼拝に参加し続けることの出来なかった人が、私たちに対してこっぴどい批判をしているのに賛同している人がいて、残念さと悲しさを感じました。
その賛同した人は、私とSNSで繋がっていた人で洗礼を受けて全く日の経たない人です。

そもそもの話ですが、私は所属する教会で福音を伝えられ、救われて洗礼を受け、一度も教会を変えたことはないです。
それに、洗礼直後に教会員の方々に証した文も残していて、救われた証を今すぐすることも出来ます。

私は、教会批判を鵜呑みにしたその人自身が悪いとは思っていません。

しかし、信仰歴が短く、確たる信仰と価値基準が無い中で、SNSのキリスト者と関わると、本来教えられるべき教えと異なる情報が入ってきて、影響を強く受けてしまう。
そして、霊的な判断が出来ないので、誤った情報を鵜呑みにしてしまうということを今回学びました。
特に教会に所属していないとなると、教師がいないということになるので、本当に知恵のついた信仰を持つことが難しいです。

ですから、私はこの記事を書くことに踏み切ったわけです。


序文:信仰歴とSNS


本題に入る前に、受洗して間もない方はSNSをやるべきではないという、私の持論を書こうと思います。

まず、私自身のことについて書きますが、私がキリスト教垢でSNSを始めたのは救われて3年以上は経った頃でした。
しかし、この頃にSNSを始めたら、教えの違う人はたくさんいるわ、とんでもない暴言を吐く人がいるわ、自分の意見を書いたら晒されるわで、大変だったわけです。

そういった中で、傷付き倒れることはあれど、信仰がおかしな方向へと行き、教会の信仰から外れることはありませんでした。
むしろ、自分の信じていることと違うことを主張している人を聖言で裁いていました。

ですが、教会の牧師からは、聖言を裁くために使わないことと、そもそも、主張が違う人は教えられていることも違うから、裁いたり批判をしてはいけないと教えられました。

私の信仰が揺らぐことがなかったのは、ずっと礼拝で同じ牧師から説教を聞き続けていましたし、司牧もまた同じ牧師から受けていたからです。

そして、一番伝えたいことは、私は受洗して何ヶ月かしてから、「SNSでキリスト教垢を作りたい」と牧師に願い出たのです。
しかし牧師は、「救われてすぐは、礼拝と学びに集中してほしい。アカウントは作っていいけれど、非公開にすることと、牧師以外のアカウントと繋がらないことを約束してね」と私に言いました。

それを忠実に守った結果、礼拝に集中することができ、霊的におかしなものや異端・カルト的な人たちの見極めがSNS上だけでなく、リアルでも出来るようになったのです。

ですから、私は経験上、最低でも3年は同じ教会、同じ説教者から教えを受けることに集中すべきだと思います。そうすることで、自分の信仰を堅く立て、霊の識別といったものが出来るようになると、今回のことで、考えました。

実際に、洗礼を受けてすぐの人がSNSをしていましたが、人を裁くことをやめなかったり、晒しツイートに賛同する人ばかりだったのです。

時に、福音宣教は出産に例えられます。
キリストを信じた人に洗礼を授けて、その人が三位一体の名で新しく生まれた時、神にある子供が産まれたと言われるのです。
そして、普通は洗礼後もアフターケア、つまり洗礼後の学びを受けます。
これが、新しく生まれた子を育てること、霊の糧というミルクをあげることになります。

ですから、洗礼を受けてすぐから、3年になるまで、キリストにある赤子は人から育てられる必要があるのです。

現実の赤ちゃんも3歳頃から飛躍的に成長が見られ、運動能力、言語能力、自我の芽生えなどが出現します。

それは、キリスト者にも言えることで、洗礼をしてから、たくさんの礼拝と学びと日常生活の体験を数年にわたって経て、大きく成長するのです。

↓赤ちゃんの生育に関する参考資料↓


教職者という役割


聖書では、職務の賜物というものがあります。
それは、コリント書やエペソ書に書かれていて、今回はエペソ書から引用します。

[エペソ人への手紙 4:11]

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

この中では、5つの役職が書かれています。
使徒と預言者の職務は聖書で完結しました。
今は、伝道者・牧師(牧者)・教師がいます。

これは、私の経験から語るものなので、原文の意味とは離れているかもしれません。

伝道者は、主に未信者を中心に福音を伝える役割を持っている人です。
聖書では使徒の働きの「伝道者ピリポ」が一番知られているでしょう。

[使徒の働き 21:8]

翌日そこを出発して、カイサリアに着くと、あの七人の一人である伝道者ピリポの家に行き、そこに滞在した。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

この伝道者ピリポは、初代エルサレム教会の執事に任命されたピリポ・エチオピアの宦官に伝道したピリポと同一人物です。
ピリポのエチオピアの宦官への伝道は使徒の働き8章のお話です(長くなってしまうので省略します)。

牧師という言葉が一番知られていると思いますが、これは、牧者(羊飼い)と同じ言葉で、羊(信徒)を導く人です。
牧者は教会員を司牧します。
そして、教会員が罪を犯しているならば、叱責し、戒め、キリストに向かせる役割があります。
教師も同じです。

この、伝道者や牧師、教師に師事して福音をずっと何年も伝えられることを、私は重視しています。


信仰の確信がないとどうなるか


これについては、私も憂慮していることです。
SNSのキリスト者は明らかに以前とレベルが落ちていると感じます。
前に書いた記事には、聖霊史上主義・体験主義な(聖霊派の教会の方とは違う人たち)キリスト者が増えてきているとあります。

そして、「キリスト者は豊かになる。貧しい人は信仰がない(要約)」といった、キリストのスピリットとは真逆のことを平気で言えてしまう人が誕生することもあります。

これは、私も気を付けねばと思うことですが、福音に触れるようなことでないのに、他のキリスト者、他教派・教団・教会、未信者を批判してやめない人も現れてしまいます。
厳しい発言にならざるを得ませんが、そのような人は大抵、信仰が未熟に感じます(私も含め)。

それがなぜ起きているのかは、私には分かりません。
しかし、一つだけ言えることは、建物としての教会にいる牧師や司祭(以下、牧者とまとめる)が、コロナ禍を経て信徒を教えること、司牧することに限界が来ているということです。

SNSのキリスト者まで、牧者は見ておりませんし、このようなSNSにいるキリスト者ほど、牧者や教会の意向を無視して、教派の違う人の主張を批判したり、異端・カルトと繋がったりしています。

ですから、本当に信仰に歩みたいキリスト者はSNSをやらない方が賢明です。
SNSの伝道に召命を受けている人は別ですが。

それで、教会で伝えられる福音を聞き続け、しかも、聞く耳をしっかりと持っていないと、SNSで流れる異なる教えにノリノリになって、教会で重宝されないキリスト者が誕生してしまうのです。

だから、教職者や牧者の存在は大切なのです。


最後に


このように、信仰の土台がしっかりしていないままSNSで活動することの危険性を私なりに書いてみました。

これは、私の教会で直接教えられたことではなく、教会生活を送っていく内に自然に身についたものです。

それと、もう一つ、真の信仰を歩むためにはどうすれば良いかというのがあります。

何でもかんでも牧者の言う通り、言いなり、鵜呑みになって、思考停止してはいけません。

牧者でも間違ったことを言う時があります。
詳しくは言いませんが、とにかく牧者の言うことが聖書と照らし合わせて間違っていないかということや、自分を躓かせる(福音とは異なることを教えられる)ようなことを言われないか。

そして、牧者がもし、他教派の批判をした時は絶対に鵜呑みにしてはいけません。
頭から否定する言葉があれば耳を貸してはいけません。

例えば、プロテスタントの牧師は知識がないのにカトリックを批判することがあります。
特にマリア崇敬や聖品に関しては、プロテスタントからカトリックへの攻撃は凄まじいです。

それに対して、カトリックの司祭にも、プロテスタント諸教会に対する批判心が強い方もいます。特に、プロテスタントからカトリックに転会する際に、大変な苦労をされる信徒の方もおられました。代父母や知り合いに頼って、なんとかカトリックへの転会にこぎつけた方の話を聞いたことがあります。

知識がないのに、相手を裁くことほど愚かなことはありません。

ですから、信仰の目と耳を養って識別する力を身に付けていきたいです。

[使徒の働き 17:10,11,12]

 兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。
この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。
それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。また、ギリシアの貴婦人たち、そして男たちも少なからず信じた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

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