地方出身者が東京で働くということ 

22歳 新卒でソフトウェアメーカーへ就職

 東京での2ヶ月の新卒研修後、営業として地元福岡へ戻るつもりだった。研修中のアンケートで”販売推進部に興味がある”と書いたら「販売推進部は色々な経験が必要だからすぐに配属は無理だけど、東京に残って経験を積めばチャンスはある。福岡に戻るより東京にいた方が良い」と勧められ、東京残ることに決めた。
その頃、2000年問題でエンジニア不足だったため、私はなぜか開発部に配属され、プログラミングをすることになった。文系出身でPCにも疎く、じっとしているのが苦手な私は、プログラミングに全く興味が持てなかった。新人にも関わらず座っていたら眠くなるという理由で立って仕事をするほど、プログラミングの仕事が合わなかった。
そんな私を見兼ねた先輩が、”販売推進部”でWeb系の新しい部署が立ち上がるということで、その部署への異動に推薦してくれた。私は入社して約半年で希望の部署に異動出来た。
”販売推進部”では、ホームページ制作を担当することになった。この部署では、後にマイクロソフトに転職してしまう秀才肌の3つ年上の先輩がリーダーを務め、一つ上の先輩と同期と私という4人だった。
開発部でひたすらプログラミングをするよりは、ホームページ制作のための他部署や外注先との打ち合わせなどがあり面白かった。当時はHTMLやVBの言語を使ってソースを書き、AdobeのIllustratorやphotoshopで画像を作っていた。この仕事を極めたいという思いはなかったが、PCに苦手意識のあった私にとって、とても良い経験になった。

販売推進部内の別部署ではテレビCM制作もしていた。新卒の私が”販売推進部”に行きたいと思ったのは、とてもミーハーな理由でCM制作などに携わりたいという理由だった。どんな仕事かもわからず、キラキラしてイメージがあったからだ。
同じ販売推進部ということで、テレビCMにも出させてもらった。スタジオで撮影したり、自分が出ているCMを地方にいる家族にも見てもらえて、とても面白い経験になった。

しかし、基本的には座ってホームページを作成する日々。もっと人とコミュニケーションを取るような仕事がしたい思いが募る日々。チームリーダーとは良い関係が築けていたので、その思いは時々伝えていた。2年程経過したとき、「営業をやってみる?」という声をかけてもらえた。

そして、販売推進部から東京支店へ異動し、営業をすることになった。
同期は既に3年近くの営業経験があったので、私は新入社員と同じように研修を受け、また1から学ぶことになった。会計・販売などのソフトウェアを代理店経由で販売するため、私の仕事は代理店にソフトを認知してもらいエンドユーザーに提案してもらうための関係作り。勉強会を開いたり、エンドユーザーへ同行しデモンストレーションをするなどそれまで開発・ホームページ制作を経験したが、営業が一番楽しく私に合っていると思った。
代理店やエンドユーザーへ訪問するたびに、「世の中にこんな会社があるんだー」「こんな仕事があるんだー」と知ることがとても面白かった。
営業なので、もちろん売り上げ目標を掲げられていたが、ほとんど達成していたと思う。時には数字がギリギリで月末にバタバタすることもあったが、数字に追われて仕事をしていたという記憶はほとんどない。

どの部署でも人間関係にはとても恵まれていた。私はお酒が飲めないし、一人時間がないとダメなタイプだったので、平日はほとんど自宅で自炊をしていた。それでも時々は上司・先輩・同期と一緒に旅行に行ったり、遊びに連れて行ったりしていた。開発・販売推進部・営業と違う部署を経験したおかげで、いろんなタイプの人と関わることができた。

私は、新卒から会社を辞めるまで、会社の借り上げたマンションに住んでいた。入社して最初の2年は個人の家賃負担は20%ほどだが、それ以降は会社からの家賃補助が1万円出るくらいで5万円近く個人負担が増える仕組みだった。そのタイミングで引っ越しをする人もいたが、多くの人は実質家賃が上がる条件を飲んでそのまま同じ部屋に住んでいたようだ。

その当時、25歳前後で私は寿貧乏だった。高校まで過ごした鹿児島・大学時代を過ごした福岡の友人が地元で結婚し、結婚式ラッシュだった。結婚式に招待してもらったら必ず行くものだと思っていた私は、断ることなくほぼ出席した。この出費に加え、家賃負担が増えるのは痛すぎる。そもそも、なぜ給料も上がらないのに会社の家賃補助が減って個人負担が増えるのか!?ということに納得がいかず、直属の上司を通して、総務部に相談した。結果的に私の家賃負担は増えることなく退職するまで条件は変わらなかった。

細かい経緯は覚えていないが「まだ全体的に家賃補助を変更無しという訳にはいかない。ただ、事情はわかったので、自己負担額はそのままで良い。ただ、全員が適用される訳ではないので、あまり公にはしないように」とのことだった。私は営業成績が飛び抜けていた訳はないが、安定して目標を達成できていたことも、希望条件が通った理由の一つだと思うが、一番はやはり周りの方と日頃からコミュニケーションを取って関係を築けていたことが大きかったと思う。

また、東証1部上場企業ではあったが、まだベンチャー的な社風もあったので融通が効いたのだと思う。今では会社も更に大きくなっているので今はもっといい条件になっていると思う。

その後、私は営業をしながら新卒セミナーの司会や経営戦略発表会の司会などもやらせてもらった。「やってみる?」と提案された仕事を断らずにやっていたら、結果的に色々な経験をすることができた。

こうやって振り返ると、私は堪え性がなく中途半端。そんな私の居場所があったのは、周りの人や環境に恵まれていて、とてもラッキーだった。

でも当時の私はそんな風には全く思えていなかった。なんかもっと自分に合う場所があるのではないかと毎日考えていた。

仕事はそれなりに楽しいが、毎朝の満員電車が苦痛。
当時の彼(今の夫)とは東京と東北の遠距離恋愛。
住んでいるマンションは6畳一間のユニットバス。
もともと家族が大好きなので、帰省先から戻る度に寂しくて泣く。
地元の友達はどんどん結婚していく。
結婚と出産に憧れはあるが、自分とは遠い世界

住んでいたマンションは多摩川の近くだったので、休みの日に時間があれば河川敷を散歩し、楽しそうな家族連れやカップルを見るたびに羨ましく思い、自分の将来に不安を感じていた。狭い部屋に住み続け、満員電車に乗って、一番側にいたい人とも過ごせない。このままどんどん歳だけとっていくのかな・・・と思っていた。

私はもともと何に興味があったんだっけ?
なんでこの仕事をしてるんだっけ?
どうなっていきたいんだっけ?

ぐるぐるモヤモヤ考えていた。
私は高校の頃はスポーツトレーナーに憧れていた。
筋肉の勉強をして人と関わるような仕事がしたかったんだ!と思いだし、突然高いお金を出して足裏マッサージ”リフレクソロジー”を学ぶ学校に通い、資格取得をしたこともあった。慣れて力の出し抜き具合が分かれば大丈夫と言われたが、その感覚を掴む前に痛みに耐えきれず、仕事にすることは諦めた。

我慢して今の生活を続けていれば、また何か違うものが見えてくるかもしれないと半ば諦めながら、仕事を続けていた。

入社して5年が経過する頃には、100人以上いた同期もかなり転職していなくなっていた。少しずつ、転職ということを考えるようになり、軽い気持ちで転職エージェントに申し込んでみた。この時はまだ本気で転職を考えてはいなかった。
これがまた大きな転機となった。
結局私はこの転職エージェントに入社して働くことになる。

転職アドバイザーとの面談では、転職理由や希望の仕事・希望の勤務地も何も決まっておらず、取り止めもなく話していたと思う。
もっと人と接する仕事がいい、勤務地は東京でも良いが、できれば地元九州、もしくは当時付き合っていた彼(今の夫)がいる東北、など。転職時期も決めていない。
とりあえず、転職に必要な書類を作成し、求人を見てみて、気になるのがあれば応募しようということで面談を終えた。
軽い気持ちで申し込みしていた私は、日々の忙しさを言い訳に面談後も書類を作成したり求人を見ることはなかった。
あるとき担当のアドバイザーの方から「うちで東北支社を立ち上げることになり、仙台勤務の募集があるけど興味ありますか?」という連絡をもらった。
面談を受けたときに、転職エージェントってこんな仕事なんだ〜という興味を持っていたので、そのことを伝えると「応募してみよう!」ということになった。

最終の役員面接は、女性の役員だった。その当時、仙台をはじめ、色々な地方に支店立ち上げを行い、役員も全国を飛び回っているとのことで、役員が出張している広島での最終面接を打診された。担当のアドバイザーの方はとても申し訳なさそうに申し出たが、私としては、交通費は会社が負担してくれるとのことで「広島に旅行に行ける!」と嬉しかった。

女性役員はとても魅力的な人だったし、たくさんの人とコミュニケーションを取りながら仕事ができるとやりたい仕事だったので、転職することを決めた。
勤務地は仙台。当時付き合っていた彼(今の夫)とは、結婚の話も出てなかったし、全く将来は見えていなかった。彼は岩手県盛岡が勤務地だったので、一緒にいられる訳でもない。
でも、ほとんど不安や迷いはなかったと思う。
行ってみてダメだったらそのとき考えよう。このまま変化しない方がずっと不安だと思っていた。

こうして、私は転職をして仙台に行くことになる。5年半住んでいた関東を離れることになった。
この時は言語化出来ていなかったけど、私は「運と縁とタイミング」を直感的に選んで生きてきたんだと思う。
それを繋いでくれているのは、周りにいる人たち。私自身は堪え性がなく、なんの
能力も特別な運も持ち合わせていないが、いつも人間関係だけはずっと恵まれていると思う。これは本当にこれには感謝しかない。



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