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シンガポール旅行② 一日目 カジノでルージュノワール

 人がこの世に存在するのは金持ちになるためではなく、幸福になるためだ。

 そんなことは重々承知だが、こちとらもはや幸福が脅かされるほどに清貧っぷりを極めているのだ。私と友人は、一攫千金のチャンスをものにすべくマリーナベイサンズを目指して夜のシンガポールをさまよっていた。

 シンガポールの生温い夜は散歩にはうってつけで夜風は肌に心地よく、目の前の湾に映る街灯りは流れるままに揺らめき周囲を美しく照らしている。

 そんな良好な環境であるにも関わらず、私と友人はいい加減この夜半の散策にうんざりしていた。遠すぎるのだ。

 ごく近くにマリーナベイサンズが見えたため歩いていこうと即断したが、どうやら目算を誤っていたらしい。我々が思っていた以上に遙かにでかいらしいマリーナベイサンズは行けども行けどもいっこうに姿が大きくならず、近づく気配は全くない。のみならず大きく婉曲した湾沿いに進まねばならないため最短の直線距離をとることもできず、いたずらにその距離はのびてゆくばかりなのだ。

 蜃気楼かよ・・・こんなことなら地下鉄で行っておくべきだった・・・。  
 後悔するがもはや遅い。正直今の場所がどこかすらろくに分からないため、最寄りの地下鉄に行くことすらままならないのだ。
 前回の台湾旅行では移動手段としてタクシーを愛用していた我々だが、シンガポールは基本的に物価が高く、したがって必然的にタクシーの値段も高い。そのうえ大半のタクシーは観光客と見るやいなや容赦なくぼったくりをかけてくるとの評判で、こんなものを足に使っていたらあっという間に干からびる。  
 そんなわけでこの旅の移動では比較的価格が良心的でICカードもあるためいちいち駅間の切符を買わずともスムーズに会計もできる地下鉄を愛用しようと心に決めていたのだ。    
 ひとまずいつ地下鉄の駅を発見しても飛び乗れるようEZリンクカードを探すため、コンビニが見当たらないか夜の街に目を凝らす。シンガポール地下鉄のICカード、EZリンクカードはコンビニでも購入できるとパンフレットに書いてあったのだ。

 ようやく街角になじみのあるセブンイレブンを発見し、引き寄せられるように入店する。店員はけだるげなインド人のおっちゃんで、店内をカードを探してうろつく私と友人をこぼれんばかりに目を見開いて凝視していた。  
 なんなんだ。なにかマズイことやったか?  
 若干の居心地の悪さを感じつつもねばり強くカードを探すが、まったくもって見あたらない。けれどもレジの前にはEZリンクカードのちらしがこれみよがしに貼られている。間違いなくここにあるはずなのだ。これはもう、恥を忍んでおっちゃんに聞いてみるほかない。

 「エクスキューズミー!アイウォント・・・EZリンクカード・・・ツー!!」

 身振り手振りでおっちゃんに思いの丈を伝える。

 「ワタシ・・・ホシイ・・・EZリンクカード・・・二・・・。」

 おそらくこのようなゴーレムばりの粗いメッセージを受け取ったであろうインド人のおっちゃんは、何かが憑依したかのようにカッと目を見開いた。  
 驚く私たちをよそに、更に数秒私たちを凝視した後、レジの後ろからEZリンクカードを二枚取り出す。

 良かった!!意味、通じてる!!  
 軽い興奮と安堵とともに会計を済ますべく財布を出す我々とは対照的に、おっちゃんはいつまでたってもカードをこちらに渡そうとはしない。こちらを凝視している。

 次の瞬間、おっちゃんがおもむろに口を開いた。  
 「シュララシャルラァー、ユシャー、ワヤナカナ~・・・。」  
 カードを示し延々とまくし立て続けるおっちゃん。

 何言ってんだ、と思った。一言も聞き取れない。

 おっちゃんが今喋っている言葉が果たして英語なのかすら判別つかないのだ。ちらりと横の友人を見ると、おっちゃんに負けず劣らず目を見開いて聞いている。  
 断言してもいい。こいつも一言も理解していない。

 一通りしゃべり終えたおっちゃんは、ひと呼吸おくと、「アーユーオーケ?」と言葉を投げかけてきた。  
 やはり今まで喋っていたのは英語だったのか!私と友人は同時に声を張り上げた。「ノー!」

 想定外の答えだったのか、驚愕の表情を露わに、目玉がこぼれんばかりに目を見開くおっちゃん。そんなにびっくりされても困る。親切に説明してくれたところ申し訳ないのだが、事実ウィーアーオーケーではない。一言も理解できていない時点で問題しかないのだ。

 おっちゃんと私たちが互いに目を見開きながら見つめ合うこと数秒、喋りのスピードを若干落としたおっちゃんは、先ほどしたであろう説明を繰り返しだした。ゆっくり喋られても相変わらず一言も聞き取れない。いくら英語が不得意な我々といえど、まさかここまで理解できないとは。シンガポール人の喋る英語はふつうの英語に比べて文法やアクセントが独特で、シングリッシュと呼ばれているのは本当だったのか?それか単純に知能の問題なのか?バカだからなのか?
 にしてもまさか再度説明モードに入るとはな。もしかしてこのEZリンクカード、客への説明義務でもあるんだろうか。

 再び長々とした説明を終えたおっちゃんの、「アーユーオーケ?」の問いかけに我々は今度は声を張り上げ「イエス!センキュー!」と答えた。  
 無論一言も理解していないが、このカードの販売に説明義務があった場合、再びノーと答えると無限にループする地獄のような世界に突入することが目に見えていたからだ。

 「こいつら・・・明らかに理解していない・・・。」表情筋すべてを使ってそう表現するおっちゃんが更に言い募ろうとするのを遮ってなんとかEZリンクカードを購入した我々は、再びマリーナベイサンズを目指して歩きだした。あとは地下鉄の駅を見つけるのみだ。

 さらに夜道を歩き続けること数十分。結局、私と友人は途中地下鉄の駅を見つけることのないまま徒歩でマリーナベイサンズにたどり着いた。間近で見たマリーナベイサンズは、上層階が反り返っているわ二股に分かれているわそのうえ船が乗っているわで、期待を裏切らぬ前衛っぷりだ。

 外のどでかい噴水に外人女性の顔を写す謎のショーを一通り鑑賞した後建物のドアを開け中にはいると、吹き抜けかと思えるほどの高い天井のもとガラス張りのショーウインドウに囲まれた高級そうな店々が居並んでいた。ホテルと言うよりは商業施設としての側面が強いようだ。    
 マリーナベイサンズの中を通って我々は、まずカジノより先に併設されている植物園、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイを目指すことにした。    
 ガーデンズ・バイ・ザ・ベイとは、植物園に近未来的な建物群を融合させた、なんだかよく分からんがとりあえず超近未来的なテーマパークだ。この雑な説明文からも分かるように、私はさして興味は無かったのだが友人は「絶対に空中散歩をする!」と意気込んでおり、ひとまず24時間営業のカジノは後回しにしてその植物園へと向かうことになったのだ。

 マリーナベイサンズから遠目で見た時点で、このガーデンズバイザベイの「近未来っぽさ」は炸裂していた。  
 高さ五十メートルのそびえ立つ数十本の巨大な人工樹達。そしてその木々の間を繋ぐように空中歩道ができており、そのうえその歩道や人工樹達は夜闇の中で様々な色に発光しているのだ。その横には「風の谷のナウシカ」にでてくるオウムを数十倍大きくしたようなフォルムの透明な二つのホールがごろんとあり、そちらも負けじとライトアップされている。  
 もはや近未来を通り越してファンタジーの世界。オタク丸出しの例えをさせて貰うならば「ここ、FFじゃん!!」という場所だった。

 ちなみに先ほど友人が抱負として掲げていた「空中散歩」とはこの巨大樹の間の空中歩道を歩く事であり、高所恐怖症の私からしてみれば正気の沙汰ではないのだが、観光客には幻想的で美しいと大層評判がいいらしい。

 そんなわけで、まずはマリーナベイサンズ内にある連結通路のある階に向かうこととなったのだが、この時点でもう私の心は折れた。
 吹き抜けになっている一階のフロアから高さ七~八階くらいのフロアまで、一本のエスカレーターが通っていたのだ。しかもとりたてて下に支えはない。たとえるならばべらぼうに長いハシゴをどっかから持ってきて、よいしょと立てかけたままの状態なのだ。

 友人も私も、どちらともなくこう言っていた。
「折れるんじゃね・・・?」

 何の建築学の知識もないが分かる。このエスカレーターは地震がくれば確実に折れるし地震が来なくとも老朽化により折れる。エスカレーターの上で、あまりの高さに高所恐怖症の私は腰を抜かさんばかりにビビっていたし、とりたてて高所恐怖症ではない友人もビビっていた。  
 もともとこのマリーナベイサンズという建物自体が近代的さ、スタイリッシュさを最重要視しており、その代償として安全性をドブに捨てていることは随所に散見されていたのだが、いざ自分の安全性がドブに捨てられるとなるとその怖さは半端じゃない。

 今地震が来たら完全に死ぬ。完全に死ぬやつだよぉ~。  
 私が心の中での神との対話をひとしきり終え、長すぎるエスカレーターが上階へたどり着いたころには「絶対に空中散歩するわ!」という友人の気持ちは「空中散歩やめとくわ!」という気持ちに変化していた。  
 即断。そして賢明な判断だ。ありがとう。    
 連絡通路からしばらくライトアップされた植物園を鑑賞した我々は、ようやくカジノへと向かった。  

 カジノの入り口はどうやら地下フロアにあるらしく、矢印に従いエスカレーターを降りると入り口らしきゲートがあった。   
 ゲートには入場客をチェックするスーツ姿の人物が数名、そしてその前にはずらりと並ぶ入場待ちの客の列がある。 ゲートは一般用と外国人用の二つに分かれており、外国人専用の入り口ではパスポートによる本人確認が次々と行われていた。
 マリーナベイサンズのカジノは通常入場料が五千円程度取られるところ、外国からの観光客の場合はパスポートを提示すれば全額が免除されているのだ。税関の審査のようなその列に私と友人もさりげなく並び、辺りの張り紙を見渡す。  
 どうやらカジノ内での写真撮影は不可、大きな荷物の持ち込みも不可のようで入り口付近にバッグなどの預かり所と受付がある。さらに言うならドレスコードもあるようだ。
 私も友人もまぁまぁの大きさのバッグを携帯してはいたのだが、恐らくここで拙い英語でバッグを預けようとしても先ほどのコンビニと同じ地獄の再来となるだろう。
 ドレスコードに至ってはサンダル履きのうえ持っているバッグはボロボロだ。なぜだかこの国に降り立った瞬間、私の合皮のバッグの皮部分がボロボロと剥がれはじめ、今では内部の布が半分以上むき出しのズダ袋になっているのだ。このカジノのドレスコードがどのようなものであれ、確実にアウトだろう。こんなヘンゼルとグレーテルばりに通る道筋に合皮をまき散らす女が通れるのならばゲートなどないも同然だ。

 とりあえず張り紙は無視して強行突破するか。もし注意されたらその時預ければいい。バッグはその場で捨てよう。
 面の皮の厚さを存分に活かし構わず並んでいたところ、意外なことに特段とがめられることもなく検査員の元までたどり着いた。  
 スーツ姿の検査員はパスポートの写真と私の顔をチラッと見比べると「オーケー。」とだけ告げてゲートを示した。良かった。ちょろいもんだぜ。何か英語で質問されたら一言も答えられないところだった。

 余談だがこの時友人はなぜが検査員から「オゥ。○○○○(友人の名前)?」とフルネームを聞き返されており、それに「イエス。」と答えたところ堪えきれず検査員が吹き出すという体験をしている。その後別のアジアの国に行っても税関等で友人の名前を知った検査員が耐えきれず笑い出す事が多々あり、「自分の名前はアジアのどこかの国の言語だと何か卑猥な意味なのでは・・・?」と悶々とする事になるのだが、それはまた後の話だ。

 無事審査を終えた我々が足を踏み入れたホールで一番はじめに目に飛び込んできたのは煌々とした照明と、高く吹き抜けた天井の空中に広がる金のリボン達だった。  
 いったい何なのかさっぱり分からないが、幅四五十センチ全長数十メートル、厚さは5センチほどはありそうな金属製の無数の金のリボンを本来なら一階の天井があるべきであろう程度の高さで宙にぶちまけ、その瞬間に固定したような豪華絢爛な謎の装飾がホール中に施されていたのだ。  
 なんなんだこれ・・・掃除とかどうやってるんだ・・・。  
 圧倒される我々の前にはこれまた金の模様が施された赤い絨毯が見渡す限りに広がっており、その上にはこれまた無数の巨大スロットが立ち並び賑やかな音をたてていた。  
 凄い・・・!これがカジノか!
 実は私がシンガポールで最も楽しみにしていたイベントの一つがこの人生初ギャンブルとなるカジノであり、軍資金としてなけなしの五万円を握りしめてきていたのだ。この豪華さにスケールの大きさ、まさにカジノ、まさにギャンブル。相手にとって不足なしだ。

 辺りを見回すこと数分。どうやら私たちが入ったこの位置はスロットコーナーにあたるらしい。  
 あたるらしい、のだが冗談抜きで千台以上は軽くありそうな巨大スロットの群れが視界いっぱいに広がっており、このホールのどこにカードゲームやルーレットのコーナーがあるのかてんで見当もつかない。

 ひとまず全体を把握しなければ話にならない。そう結論付けた我々は、場内をぐるりと見て回ることにした。  
 はじめは装飾の豪華さに圧倒されて萎縮していたが、よくよくみれば客層自体はどうという事のない一般人だ。 今までカジノに対する知識がルパン三世しかなかったため、カジノといえばスーツ姿の金持ち紳士と赤いカクテルドレスを着た美女がいるものだと思っていたのだが、現実はどこにでもいるおっちゃんやおばちゃんがひしめいている。服装もいたって普段着で、カクテルドレスはおろかユニクロやしまむらで一式揃えましたと言われても納得するような格好の人が多数派だ。  実際サンダル履きにズタ袋持参の私が入場できたことといい、ここのドレスコードの運用基準はかなり緩いらしい。  
 また、場内にはスロットの使い方等を案内してくれそうな従業員はおらず、代わりにスーツを着た強面の男性達がいる。人相から見るに、これはおそらく客を取り押さえる要員で案内要員ではないだろう。 

 スロットコーナーに関しては、掛け金5セント程度で遊べる少額の台から高額の台まで、実に様々な種類がある。  
 五セントと言えば五円くらいか。ならばとりあえず少額スロットでもやってみるかということで、友人と私は並んで適当な台に腰をかけた。
 まずは百円程度から始めようと、一ドルを見よう見まねで台に投入する。スロットは昔ながらのスタンダードなもので、回転する絵柄をボタンを押して揃えれば大当たり、といった至ってシンプルなものだった。人生初のギャンブル、気合いも入ろうというものだ。

 結論からいうと盛り上がらないことこのうえなかった。
 一応何回か絵柄も揃い当たりも出たのだが、もともとかけている金額が約五円であるため当たったとしても数十円程度、マシーンに表示されている投入額が百円から百五十円に上がろうが、七十円に減ろうが、私達の心は驚くほど動かなかったのだ。  

 「喜びを感じる・・・?」  
 「いや・・・。むしろこの台、中途半端に当たりが出続けるから投入額がほとんど減らなくて無限にスロットのボタン押すことを強いられてるんだけど…。そっちは?」  
 「全く同じ状況だよ。このボタンもう百回くらい押してるんだけど、正直最初の十回くらいで飽きたから、残りの九十回以上はただの作業だわ・・・。」

 華々しいカジノにはそぐわない、暗い表情で友人とぼそぼそと会話を交わす。  
 周りに並ぶ数十台の5セントスロットはほぼ中国人と思しき中年男性と中年女性で埋まっている状況だが、みんな本当に何が楽しくてこの作業を繰り返しているんだ・・・?この掛け金なら当たりに当たっても一時間で千円程度にしかならないんじゃないか・・・?なぜ普通に働かない・・・?

 少なくともスロットではギャンブルの楽しさを見出せそうにないということを理解した我々は、新天地を目指すべくそっと台を離れ、スロット以外のコーナーを目指しひとまず壁伝いに歩いていくことにした。もはや巨大迷路と同じ扱いだ。

 思いの外ギャンブルを楽しめないのではないかという僅かな不安と焦りの中、ふらふらとホール内をさまよう私達の前に思いもかけぬ喜びが出現した。ドリンクバーだ。無料のドリンクバーがそこにはあった。  

 たかだかドリンクバーとあなどるなかれ。実はシンガポールの軒並み高い物価は飲食物にもガッツリ影響しており、ただの水であるはずのエビアン一本ですら二三百円は平気でするのだ。
 そんな中満足に水分補給もできず長々と歩いていた私達の前に突如として現れたドリンクバー。入っている中身はコーラにジュースにお茶といったファミレスのそれと大差ないものだったのだが、物価の高いこの国でそれらを無限にタダで飲ませてくれるなんて。なんという大盤振る舞い。なんというバブル。さながら砂漠に出現した輝くオアシスのようなものだ。  

 喜々としてドリンクバーに近づき紙コップについだコーラをがぶ飲みする。乾いた身体にコーラの冷えた炭酸が染み渡る。たまんねぇぜ。
 ドリンクバーには紙コップのほかにもマリーナベイサンズの文字が印刷されたペットボトル入りのミネラルウォーターも置いてあった。スロットなどで遊ぶ際には自由にこれをとって傍らに置いてくださいね、ということらしい。

 ありがてぇ・・・ありがてぇよぅ。  
 もうスロットで遊ぶ予定はさらさらないが、友人と二人でペットボトルをバッグにつっこむ。もはや盗人だ。

 邪悪な笑みを浮かべながらもすっかり気持ちを回復した我々は、ようやくスロットコーナーを抜け次なるエリアに突入した。どうやらここはルーレットゾーンらしい。

 ルーレットといっても実際回っているルーレットの台は前方にある一台だけで、周りにある数十台のゲーセンにある格ゲー台のような謎のマシーンがその一台のルーレットの映像をそれぞれ映しだしていた。  
 どうやらこの一台のルーレットに、周囲のマシーンを使っている数十人の客が各々賭けているようだ。
 ルーレットといえばカジノの花形!是非ともやらねば!  
 これまた意気揚々とマシーンに座り見よう見まねでひとまず一ドル札を投入する友人と私。これからが伝説の始まりだ!

 プレイを始めること十数分。
 おかしい。
 最初にベットした一ドル札がいっこうに減らないのだ。はずれていてもなくならない。のみならず当たっていても増えない。
 つまり始まって今に至るまで、思い悩んで様々に賭けても全てノーカン状態で、機械に表示されているベット額は一ドルのままなのだ。

 どうなってるんだこれは・・・?故障か・・・?

 困惑した我々は、賭けることをひとまずやめてひたすら機械を見つめることにした。
 やはりどう見ても、前方の台でルーレットが回ると機械にその映像が映し出され、各々が賭ける数字や色を選ぶ、ルーレットが止まりそうになったらベット終了、止まった場面が映し出され当たったか外れたのかが画面に表示される、の流れだ。  
 うん。どう見ても間違いはない。間違ってはいない。

 私が自らの正しさに確信を深める一方で、何かに気づいたらしい友人は小さく息をのみ、聞き取れないほどの小声で呟いた。

 「違う…。」

 「何が?」

 続きを促す私を半笑いで見遣り、言い辛そうに友人は続けた。

 「これ、最低ベット額が五ドルからなんだよ・・・。だから一ドルだけ入れてもゲームが始まったと認識されないんだよ・・・。」

 沈黙した。

 確かに友人が指す場所を見ると「~~5$~~」と何行かにわたって注意書きが書いてある。ミニマムっぽい単語も見受けられるし、どうやらここに「最低ベット額は五ドルだよ!」的なことが書いてあるらしい。 またしても生き恥を重ねてしまったようだな。
 
 にしても最低ベット額が5ドル(約500円)からはちょいと高すぎやしないか?  
 先ほど5セントのスロットで「こんなはした金をかけたところで何の喜びもない」と散々クレームつけておいてなんだが、高くなれば高くなったでクレームをつける性分なのだ。適正価格が見つからない。    
 「よっしゃ、とりあえず賭けてみよ!」     
 ともあれ気合を入れて5ドルを投入し、思い切って赤にかける!情熱の赤!はずれた!無くなる500円!横を見ると友人もはずれている!すごい!一瞬で千円がなくなった!

 正直テンションだだ下がりだ。

 その後も数回賭け当たりとはずれを繰り返すが、精神は凪いだままだ。公文式のドリルを解くときと同じくらい淡々としている。
 どうしよう。あれだけ楽しみにしていたカジノなのに、喜びを感じない。シンガポールに旅先を決めた三割くらいの理由がこのカジノなのに。やっぱり機械だからよくないのかな。ちゃんとカジノっぽくディーラーのもとで駆け引きをしてこそギャンブルの楽しみがあるのでは…?    

 困惑とともに席を立った我々は、即座に声をかけられた。  
「ファーナーシャンランリャーリャー?」  
 声の主は普段着姿の中国人のおばちゃんだった。困惑するこちらにはおかまいなしに続けざまに中国語でマシンガントークを炸裂させるおばちゃん。  
 どうやらこのおばちゃん、スロットで勝ったらしく100ドルの金額が書かれたレシート的なものがマシンから出てきたのだが、いったいこれをどうやったら現金に交換できるか分からないようなのだ。そんなわけでとりあえず、現地の華僑と思って私と友人に聞いてきたらしい。  
 知らんがな。あいにくこちとら日本人旅行者なのだ。それも最低ベット額すら読み取れないほどの知能のな。  
 「そーりー、アイムジャパニーズ。」  
 残酷なようだがおばちゃんに真実を告げる。
 しかしおばちゃんの顔には微塵の動揺もなかった。「そうなのか。じゃ、後はお前に任せたから。」さながら浜辺に寝そべるトドの如し。全身を使いそう表現している。

 嘘だろ・・・。  
 思いがけないおばちゃんの反応に途端にどうしていいか分からずおろおろする私と友人。普通相手が外国から来た旅行者と分かったら諦めて他をあたるだろ・・・?なんでそのまま委ねるんだ・・・。    

 ちなみにこの先もこのシンガポール旅行中に現地の華僑と思われて旅行中の中国人に頼まれごとをすることがままあったのだが、おかげで学んだことが一つあった。  
 中国人に頼まれごとをした時は「旅行中の日本人であること」「英語が喋れないこと」などをアピールして断ろうとしても全くの無駄だ。「そうか、じゃあお前に任せたから」状態に相手が移行し、結果なぜだか相手の願望を叶えるために貴重な旅行中の時間を消費し試行錯誤する羽目になる。文化の違いなのか婉曲的に断っても相手に断っていると伝わらないのだ。「ノー!そーりー!」とだけ一方的に告げてその場を去る。断るにはそれしかない。

 さておきそんなことも知らない私たちは完全に「待ち」の体制に入っているおばちゃんのため、仕方なく換金機械らしきものを探すこととなった。  
 あたりを歩き回り見渡すと、両替機くらいの大きさのディスプレイのついた機械がある。なんだか凄くそれっぽい感じだ。おそらくこれが交換機だろう。
 さっさと解放されたい私たちは機械を指し示し片言でその事を告げるが、変わらず「そうか。」の姿勢を崩さないおばちゃん。完全にエクスチェンジまでこちらに一任する構えだ。

 もう知らんぞ・・・。知らないからな・・・。

 機械に近づき画面に表示されている換金っぽいボタンを押す。そしておばちゃんの一万円相当のレシートを機械に突っ込む。    
 急に切り替わる画面表示。画面いっぱいに映る子供たちの笑顔。寄付金で建てられたであろう学校の写真。    
 完全に寄付した。功徳を積んでしまった。他人の金で。

 本日数度目の顔面蒼白だ。このおばちゃんの押ししかない性格からして、私が誤って寄付した一万円を泣き寝入りする可能性は間違いなくゼロ。なんなら泥棒呼ばわりされて大騒ぎされた挙句、先ほどの強面スーツに取り押さえられるのが目に見えている。  
 最悪だ・・・。  
 数分先の未来まで一瞬でシュミレートした私の目の前で、機械は唐突に100ドル札を吐き出した。  
 あれ・・・?換金できてる・・・?  
 現実についていけず戸惑う私の前で、満面の笑みを浮かべたおばちゃんが瞬時に100ドル札をむしり取った。こちらに揚々とお礼を告げ颯爽と去るおばちゃん。  
 換金できた・・?できたのか・・・?  
 よく分からないがまぁいいか。だいぶもたついたが結果的に換金方法も完璧にマスターできた。これで金持ちになる準備は全て整った。あとはディーラーのもとに向かうだけだ。    

 ディーラーのいる台を探し求める事数分。途中カジノの花形ポーカーの台を発見するも、そこでは客とディーラーが手裏剣さながらにトランプを指で弾き飛ばしながら空中で受け渡ししていた。  
 この動きする必要ある・・・?
 なんにせよこんな玄人じみた動きなんてとてもできない。参加を断念した我々は、次なるカジノの花形、ディーラーのいるルーレットコーナーへと向かった。    

 ルーレットの台はカジノ1階2階に散開しているのだが、台によって人が群がり歓声の起きているテーブルもあれば、ディーラーただ一人が気だるげに佇んでいる台もある。  
 とりあえず何の知識もない我々は他の客の迷惑にだけはならないよう、明らかにひとりで暇を持て余している大学生くらいのディーラー兄ちゃんの台へと近寄って行った。    

 「シュララララフェェツ?」

 明らかな作り笑いで話しかけてくるディーラー。おそらく「遊んでいくかい?」的なことを言っているのだろう。

 「イエス!ミニマム!ミニマムベット?」

 みすぼらしい身なりのとおり、細客であることを隠しもせず赤と黒の部分を指さし最低ベット額をディーラーに尋ねる。    

 「オゥ。フィフティーン。」

 1,500円からか・・・。だいぶ高いな・・・。  
 迷った末に私と友人は、750円ずつを後ほど割り勘することにし、賭けに参加する事を決めた。せっかくカジノに来たのだから、ルーレットくらいは体験しておきたい!人生思い切りだ。  

 しかしながら「断腸の思い・・・!」と言いながら友人が差し出した15ドルを見ても、ディーラーはいっこうにチップに交換しようとしない。キョトンとしている。

 数秒後、状況を解したらしいディーラーが急に痛ましげな表情を作り苦笑いで口を開いた。  

 「ノォオーゥ。ゴジューゥ。」

 ・・・日本語喋れたんかい!!  
 賭ける前からすでに圧倒的恥をかいちまった。どんだけの恥をかきすてればいいんだ。  
 50ドルということは5,000円か。こっちはもう1,500円で断腸してるんだぞ。正気なのか。  
 しかしこうなってしまったからにはもうおめおめと後戻りすることはできない。ボディーランゲージを駆使し、ディーラーから一つの数字に絞って賭けるのなら最低ベット額は2,000円程度で済むことを聞き出すと、我々は各々一つ、二人で話し合いもう一つ、の計三つに賭けることにした。  
 当たる確率は当初の赤黒が2分の1だったことに対し36分の1と一気に険しくなるが、その代わり当たれば一気に36倍!この旅の豪遊が約束されている。  

 かたずをのんで我々が見守る中ディーラーの放ったボールは美しく弧を描き、そして一つの数字の下で止まった。

 ・・・はずれた。

 おおかた予想はしていたが全てはずれた。完全にはずれた。    
 そんな我々の様子を見て、ディーラーが陽気に「再チャレンジするかい?」的な事を肩をすくめながら言っているがそんなわけないだろ、だ。こっちはもう腸千切れてるんだぞ。

 にしてもなんなんだろうこの闘志のなさは。あんなに楽しみにしていたのに、二人のうちどちらも「次こそは!次こそは勝てる気がするんだ・・・!!」の様な、ギャンブラーにありがちな状態に全くならないのだ。「なんだこれ。金の引き出せない貯金箱じゃねーか。」という気持ちにしかならない。盛り上がらないことこのうえない。
 どうやら今回のカジノ体験を通しての唯一の僥倖は、友人も私もギャンブル依存症になる可能性は限りなく低いと判明した事だけのようだ。めでたいような、めでたくないような。

 もはやギャンブルに楽しみを見出すことを諦めた我々は、代わりにこの広大なカジノを純粋に探索することにした。  
 カジノの吹き抜け部分をみるに、どうやらこのカジノは4~5階以上まで展開しているようで、各階にテーマカラーでもあるのか、上階から下の階へ赤や金色の光が溢れ落ちているのだ。上階の様子を伺おうとしても、カーテンやシャンデリアの輝きのせいで全く見えない。  
 とにかく上へ登ってみよう。  
 2階にいた我々は、ひとまず3階へ上がるべく上りのエスカレーターを探した。  

 ようやく見つかった3階へのエスカレーターの周りは静寂に包まれており、案内には「ルビーの間」的な標識がかけられている。  
 大丈夫なのか。明らかに招かれざる客の私たちがルビーの間に押しかけて、罰せられないか?シンガポールの刑事罰には鞭打ちがあったよな・・・。  
 不安が頭をよぎるも友人と共に「何かあったらトイレを探す観光客のふりをしよう!『ウェアイズトイレット?』を連呼しとけば大丈夫だ!」という根拠のない防御策を打ち出し、意気込んでエスカレーターに乗った。

 期待は数十秒後に打ち砕かれた。  
 ルビーの間はどうやら高額な賭けをする選ばれし金持ちにしか入場が許されない場所らしく、エスカレーターを上がってすぐの入口の前にはSPのような男達が入場者の提示する金持ち限定カードのようなものをチェックしている。きっと上の階に行くにつれ、どんどん入場者が限られてくるのだろう。  
 はい!入れないねー!  
 さすがに筋骨隆々のSPを倒してカジノ見学をする気概もなく、我々はドアから中の様子を垣間見るにとどめて下の階へと降りた。  
 ちなみにちらりと覗き見ると中では一階にいたのと全く変わらないユニクロスタイルの凡庸なおっさんが、うずたかく積まれたチップの山を賭けているところだった。外見から金持ちを判断するのは難しい時代になったみたいだな。

 カジノを後にした我々は、帰りは地下鉄でチャージしたEZリンクカードのおかげで行きの苦労が嘘のようにあっという間にホテルについた。なんという快適さ。やっぱりシンガポールでの移動は地下鉄に限る。

 ホテルでだらだらと今日のカジノの感想を友人と好き勝手に喋りながら、ふとカバンの中をみるとミネラルウォーターが入っている。無料だったはずのこの水も、本日の負け分のおかげで一本二万円の水に早変わりだ。  人生で最も高い水で喉を潤しつつ、シンガポール初日の夜はようやく幕を下ろした。

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