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台湾旅行⑤ 二日目 秘められし白菜

 変身写真撮影を終えた私たちは、拾ったタクシーをかっ飛ばし、一路、故宮博物院へと向かった。
 故宮博物館は台湾随一とされている博物館で、館内には中国古代の皇帝たちが集めた青磁や白磁の器の数々や著名な画家がしたためた水墨画、彫り物などなど、台湾の至宝と言っても過言ではないような品々が所狭しと展示されているのだという。
 なかでもとりわけ有名なのは翡翠でできた白菜と瑪瑙でできた角煮の彫り物で、この二つは石元来の色味を生かしつつ絶妙としか言いようのない案配で最高の細工がされており、まさに白菜と豚の角煮そのもの、まさに神品といってよい品だという。

 期待に胸を躍らせタクシーに乗車すること数十分、たどりついた故宮博物院は、そんな由緒ある品々を納めるにふさわしい宮殿のような立派な建物だった。


 ・・・しかしまぁ、こんなに長々と前口上を述べておいて何だが、結論から言うと今回の故宮博物院での数時間にわたる美術鑑賞を通じて分かったことは、私と友人に芸術を理解する感覚はほぼ無いという事だけだった。よってここでの記憶もほぼ無い。こうしている今も、旅行記につけるべき内容が何もなくて苦しんでいる。なんせ肝心の記憶がまるでないのだ。
 かろうじて覚えているのは、数百年前の白磁の器などを見ながらものの分かった様なふりをしきりにしつつ、「はぁ~、白いねぇ~。そしてつるんとしている。」などといったなんの中身もないコメントを繰り返し続けていた事くらいだ。おそらく杏仁豆腐を見せても同じ事を言っただろう。  

 そんな生ける屍状態の私達だったが、その無教養な心にもさすがに強い象を与えたものが三つほどあった。前述の角煮と白菜、そして象牙多層球という象牙の球だ。

 象牙多層球とは、まるで牡丹のような豪奢な模様が彫られた拳ほどの大きさの象牙でできた球があり、その透かし彫り部分をよくよく見ると、球の内部に同じような模様の彫られた球が何十層も作ってあるのが分かる・・・という美術品だ。つまるところ継ぎ目のないマトリョーシカが何十層も重なっており、そのそれぞれの顔の部分だけ穴が空いている事から、その部分から中をのぞき込んで内部のマトリョーシカの模様を見たり、中にあるミニマトリョーシカ達を指でくるっと回したりして側面のいろんな模様を楽しむことができる、という代物だとイメージしてもらえれば分かりやすいだろう。   そもそも球を何十層も継ぎ目のないマトリョーシカ状に彫り、そのすべてに過剰なまでに絢爛な装飾をする事自体、物理的にどうやったらできるものなのか検討すらつかない。
 なんでもここに展示されている象牙多層球は中国でももの凄く有名な彫り士が親子三代にわたってようやく完成させた代物で、気の遠くなるような時間と技術が注ぎ込まれており、現代ではもはや再現することはかなわないのだという。 ちなみに彫り士云々は前を進む日本人団体客の解説をあたかも一員のような顔をして所々盗み聞いたものなので、いったいどこまでが正しい情報なのかは怪しい。話半分に理解いただきたい。
 正直この象牙多層球、お前にやるよと言われてもめちゃめちゃ埃は溜まりそうだわすぐ壊れそうだわ、そのうえ親子三代にわたって完成させただなんてなんだかプレッシャーかかる…などの理由で持つ事すら遠慮したいような品なのだが、故宮博物院にはこの他にも象牙多層球がいくつも保管してあるらしい。いわんや皇帝の住居ともなればそこら中にゴロゴロ転がっていたのだろう。きっと埃など気にせずとも女中的な人が毎日ぴかぴかにしてくれるに違いない。想像がつかな過ぎて適当な事を言ってしまった。

 とにもかくにもこの故宮博物院に展示してある品々は、この象牙多層球に留まらず基本的に湯水のように金と時間と技術を注ぎ込まれねば作れないだろうな、という品ばかりなのだ。そしてその結果、教養の欠片もない私達のような下々の民にも半ば力技でその凄さを見せつける事を可能としている。平民を統治する力が凄い。さすが皇帝だ。

 一通り故宮博物院の洗礼を受けた我々は、ようやくこの博物館最大級の目玉、翡翠の白菜と瑪瑙の角煮のもとへとたどり着いた。さすが目玉商品なだけあって、中央にある大きなガラスのケースの周りは二重三重にみっしりと人が取り囲んでおり、中に入っているものの一端すら見えない。

 待つこと数分、ようやくじわじわと前方の人並みが割れてきた頃、待ちに待った翡翠の白菜との対面がかなった。 正直な感想を言おう。

 ちっさ・・・!!!!

 目に入った白菜は、白菜ではなかった。正直ラディッシュであった。数冊のガイドブックを読み込みまくっていた私だが、そのいずれもがページ一面に巨大な白菜を掲載しており、当然のように白菜の大きさは実物大だと解釈していたのだ。まさかレンゲに乗るようなサイズとは夢にも思わなかったのだ。思わぬガッカリ感。白菜に背負わされる理不尽な失望。ふと横の友人を見ると「えっ・・・?小さくないか・・・?けど一応台湾の至宝らしいし、『繊細な技巧・・・!』みたいな事を言っといた方がいいのか・・・?」という明らかな逡巡が見て取れる。

 事実白菜は何も悪くないのだ。その姿ははガイドブックで限界まで拡大されても何の違和感も抱かせないどころか、むしろ実物大だと思わせてしまうほど精緻なものであり、同じ翡翠から切り出されている白菜にとまるバッタまで、本物と見紛うほどの見事な出来になっている。
 ただ、サッカーボール大の大きな翡翠の塊を想像していた私達からすると、肩すかしをくらった感はぬぐい去れないのだ。そもそもそんな大きさの翡翠などあるのかという当然の疑問はさておき、今まで一体幾人の観光客がこの白菜を見て微妙な心持ちを抱き、そして長年その客達の顔を見続けてきたこの白菜は、どんな気持ちを抱いているのだろう。
 悶々と思いを巡らせた私は、次なる瑪瑙の角煮を見ても「さすがに角煮は実物大か・・・。」と大きさの感想に終始し博物館を去った。そもそもなぜ、宝石である翡翠や瑪瑙で白菜と角煮を作ろうと思ったのか。明らかに後者のほうがランクダウンしているじゃないか。やはり皇帝の考えることは分からない。私が部下でこんなものの作成を命じられたら、即黄巾の乱ルート突入だ。

 ここは私たちが来るような場所ではなかった。富裕層の老夫婦が来るべき場所であった。悲しい諦観を胸に私と友人は次なる目的地、台湾一の由緒ある寺院、龍山寺に向かうべく博物館をあとにした。

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