不自由すぎるよ自由意志(じゅいし)ちゃん!

この記事ではタイトルにもあるように、自由意志の不自由さについて考えていく。ここでの自由意志とは、僕たちが何らかの行動をする際にこれをしたいというアイデアを出したり、最終的な意思決定をしたりするもので、僕たちは普段これに従って生活をしている。この文章を書こうと思ったり、この文章を読もうと思ったりするのも、全て意識的かどうかには関わらず、自由意志の判断で決められている。逆に考えた方がわかりやすいかもしれない。僕たちは生活をする上で何らかの判断をし続けているので、その大元となるものを自由意志と呼ぶ。ともかく、この自由意志が自由である、という前提のおかげで「努力をしないお前が悪い」という自己責任論が成り立っている気がする。僕は決定論が大好きなので、今回は自由意志がいかに不自由なものか、ということについて考えていきたい。
量子力学が発達しつつある現在では、決定論が全て正しいと考えるのは相当難しくなっている。未来は確定していないというのは今や量子論の世界の常識になっているし、それを示すような実験結果も多数報告されている。それでもなお決定論に関して言えることが一つあると思う。それは、「自由意志を構成する要素のうち、自分が自由に変えられる変数が一つもない」という点だ。
そもそも、自由意志は以下の二つの要因で成り立っていると考えられる。それは、遺伝子などによる先天的なものと、環境や過去の経験という後天的なものだ(ここでは思想なども経験の一種として考えられる)。まず、先天的なものについて考えると、これは明らかに自分で選択したり変更することはできない。赤ちゃんは生まれてくる親を選べないし、生まれつき引っ込み思案だったり活発だったりするのも直接は変えられない。次に後天的なものについて考えてみると、こちらは一見自分で変えていけるように見える。自分を変えたいと思っている人が何か新しいことにチャレンジしたり、新しい団体に所属したりするのはその典型だろう。成功体験を積むことによって、前向きに精神が成長していくというのは非常にわかりやすいし、自分自身の努力によって変わる事ができた、というのはよく聞く話でもある。しかし、「自由意志に影響を与えるような経験」をする、という判断は何によって為されるか。それは、その判断をするまでに自分が持っていた自由意志だろう。もちろん、たまたまテレビで見かけたから、などの偶然や、友人や家族といった環境も影響を与えるだろうが、それらについて考えてみると、まず偶然による影響は当然自分で選択することはできない。また、人間関係などの身の回りの環境も、家族や出身地といった先天的なものと、友人や所属団体といった後天的なものに分けられて、先天的なものは自分で選ぶことはできないし、後天的なものも先天的なものの影響を免れることはできない。仮に全く自由に選べたとしても、それを選択するのはそれまでに自分が持っていた自由意志だ。このように考えると、自由意志に後天的に影響を与えられるのは、家庭や出身地などの先天的な環境や偶然といった自分では干渉する事ができないものか、それまでに自分が持っていた自由意志とそれによって選択された経験たち、ということになる。そして、現在自分が持っている自由意志に影響を与えた判断をした自由意志、その自由意志に影響を与えた判断をした自由意志、というふうに遡っていくと、最終的に辿り着くのは生まれつきの性格や家庭環境といった先天的なものだ。当然これらは自分で選択する事ができないので、結局自分が変更できる自由意志の要素というものは存在しない、という事がわかる。確かに、未来は確定していないかもしれないが、それでも自分で自由に決める事ができない状態ということには変わりなく、それならば未来が確定している状態と大した差はない。「自分は変わりたい」と思うのは立派だが、そもそも「自分は変わりたい」と思えること自体が、自分ではない要素のみによって形作られている自由意志の判断にすぎない。目標が欲しいと思い、実際に目標を立てて、それに向かって努力したいと思えて、さらにその努力を実行することが出来るような先天的条件を与えられた人と、そうでない人がいるので、それらが与えられなかった弱者を自己責任論ですませるのは、与えられた強者の言い分にすぎないと思う。だから、決定論は誰にも責任はないという意味での無責任な論法であり、成功しても自分のおかげではなく、失敗しても自分のせいではないという、弱きを助け強きを挫く最も優しい論法だと思う。「あなたはもっとこうするべきだ」というアドバイスに対しては、「私として生まれて、私として育てばあなたも同じ判断をするだろう」というのが正しい反論になるはずだ。
このように、未来は不確定であると考えても、未来を選択するのは過去の集積である自由意志であり、その自由意志を構成するものは全て先天的な要因、もしくは自分で干渉できない環境であると考えると、いかに自由意志が不自由であり人生が運ゲーか、という事がわかると思う。
自分の仮説は自分では棄却しにくいので、反論や指摘があったらぜひお願いしたい。


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