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幼稚園に登園できない子

私の『生い立ち』③

久々に生い立ちの続きを始めよう。
田舎の御屋敷に3人の生活が始まった!が、父はほとんど留守なので、母と2人が多かった。なぜ父がいないかと言えば、仕事と浮気だった。

父の経営する診療所は銀座から東北まで何ヵ所もあった。バブルと言われる時期の始まりで、銀行からお金がバンバン借りれた時代だったのだろう。
父は各診療所を定期的に見に行っているので、単身赴任みたいな感じだ。しかし同時に派手に飲み歩いていた。売り上げを持って飲みに行って、給料日前に母がお金をかき集める事も多々あったようだ。

母は両親が早くに亡くなったうえに、父も不在だったので独りで初めての育児をした。その時はまだ家政婦もいなかったので、出産した次の日に赤ちゃんを病院に残し、育児の用意をして家事もしたと…

私は幼稚園くらいからの記憶しか無い。しかも覚えている事は、登園拒否でいつも泣いていた光景だ。幼稚園バスや母に送られる車の中の心細さは、今でも胸が痛いほど覚えている。結局、幼稚園は卒業するまで馴染めなかった。

幼児心理的な事で言うと、家庭でたっぷりの愛情と安心を受けている子供は何の不安もなく新しい環境や体験を楽しめる。逆に親の愛情や環境が不安定だと、親と離れるのが怖いらしい。
つまり子供ながらに家庭の空気や母の不安定さを感じ取って、安心して生活が出来ていなかったのだろう。でも母は頑張っていた!誰が責める事が出来ようか?

幼稚園バスを母と待つ時間が嫌だった。バスが来ると、泣いて行かないと言い続けた。結局は遅れて、母の車で幼稚園に連れて行かれた・・・
幼稚園で私は何をしていたのだろう?教室の隅で座って、お帰りの時間まで耐えていた感覚しか残っていない。
歌もお絵かきも外遊びも楽しくは無かった。友達は1人いたが、ご近所さんだから仲良くしてくれた感じだろう。いつもその子の真似をしていた。
ある日、芋掘り体験の思い出を絵に描こうという時間があった。私は隣の子の真似をして描いた。女の子が立って笑っていて、横には体より大きなサツマイモが描かれている。母はその絵が大好きだった。嬉しそうに「よっぽど楽しかったのね」とほほ笑む。だから本当の事は言えずに、私もただ笑た。

大人になってから、あの絵は隣の子の真似だと言った事が何度かあった。しかし母は聞こえていないようなフリをして受け入れなかった。親としては都合の悪い事は知りたくないのだろう。
あぁ~、こうやって親子の心の溝は深まるのだな…と知った。母も大変だったのは分かる。相談できる両親もいない。旦那は浮気と借金の中、ワンオペ育児は辛かっただろう。そうやって私は自分の悲しみや苦しみよりも、母の気持ちを優先した。幼稚園の頃からずっと…

私の幼稚園時代は、開園以来の最多欠席賞と言われ卒園した。この時期に子供が社会に出て学ぶ経験を、私は何も得る事ができなかった。
続きはまた今度にしよう。

読んで下さって有り難う☆


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