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修験寺院同士の交流についてー大徳院周応の死去と葬儀執行に関連してー

はじめに

地域の修験寺院を考察する際、寺院運営と並び他寺院の住職との関係も考慮に加えれば寺院運営、山伏の活動が鮮明になってくる。特に、住職名がわかる史料、住職の墓石などは相互関係を明らかにする上で重宝する。今回は、本山派修験寺院東林寺の調査で触れることが多い本山派修験寺院大徳院の史料から山伏同士の関係、住職名を比定できるものを見つけた。この史料は宇高良哲編『武蔵越生山本坊文書』で収録されている。大徳院は、血縁、地縁、法縁から山伏同士の関係を検討するのに良質な史料を有しており、本山派先達修験寺院山本坊配下の筆頭正年行事職にあったので主従関係の具体的内容を知れる史料も多い。山本坊が定めた霞内法度と関連させながら大徳院の史料を紹介したい。

(1)山本坊の内規と大徳院周乗の葬儀執行

今回、扱う史料を下記に記述する。

嘉永6年(1853)「森戸大徳院詫証文」「山本坊相馬家文書」
「 差出申し御詫一札の事
 一、拙僧隠居周応について、去五月に死去したところ、時分につき、暇執り置きについて、持宝院ならびに身寄りの者を持って(山本坊へ)お届け申しました。その後、当月十八日本葬致すつもりにて、報告しましたけれども、御検僧並びに引導師などについて相伺い、御下知を受けるところ、その義をしないで当日、葬式執行をした点、全く不行き届きでした。ただいま、御指図を受け、申し訳ございません。よって、連印の者とお詫び申し上げるところ、格別の思し召しを持ってお聞きくださればありがたく存じ奉ります。以来は、右の様なことがないように心がけます。よって、一札出します。
             嘉永六丑年
                八月
                  當人
                   大徳院(印)
                  詫人
                   淨覚院(印)
                   林蔵院(印)
                   持宝院(印)
          登臨山
            御役所」

この文書は、本山派修験寺院大徳院の隠居周応が死去した。葬儀執行について、子の大徳院周乗が山本坊内の規範に違反したので上官から指摘されて謝罪した内容である。登臨山は山本坊の山号である。
同文書は、大徳院と関係の深い寺院が葬儀に関わったため、共に山本坊へ謝罪したのが記述される。文書を分解、山伏間の具体的な相互関係を紹介、住職名を明らかにするのが今回の主題となる。

事の発端は大徳院周応が嘉永6年に死去したことによる。後継者は周乗であり、父親の死去の対応で多忙だったので同じ、森戸村に住む本山派修験寺院持宝院と身内を使者にして当時の坊主山本坊徳栄へ報告を依頼した。周乗は、周応の葬儀日を決めた。
しかし、山本坊から派遣される僧侶による検死を行う、引導師と協同で葬儀執行するという山本坊の内規通りの動きをせず大徳院だけで執行してしまった。
徳栄からは内規違反の指摘を受け、周乗は謝罪した流れとなる。

大徳院周応の墓石

山本坊が配下寺院住職が死去した際の死亡届けから葬儀執行、金銭の取り扱いについての内規は、天保10年(1839)に定めた。この文書は山本坊役僧の本山派修験寺院福寿寺の所蔵である。
内規は、経営が厳しい配下寺院のため葬儀代金を予め徴収しておき、葬儀執行の際に使用すると定めた。
他にも、外聞にも考慮して相応の格式を持って葬儀執行して見苦しくないことを山本坊は命令した。

今回扱う大徳院周応の葬儀と関係するのは、住職が死去した際、上官へ死亡届と検死の僧侶派遣、引導師の選定の内規である。
山本坊の内規では検死の僧侶を派遣した際に謝礼を用意すること、引導師は、隣寺、法類の中から依頼してから葬式次第を報告することを定めた。
内規に大徳院の事例を当てはめると、周乗書状から同郷の持宝院に依頼したと見られる。

(2)大徳院と葬儀に関わった修験寺院との関係

大徳院周乗と共に山本坊へ謝罪をした修験寺院は、大谷木村(埼玉県毛呂山町大谷木)の本山派修験寺院浄覚院、上寺山村(同県川越市寺山)の正年行事職林蔵院、同郷の持宝院である。

①本山派修験寺院浄覚院
浄覚院と大徳院は親戚関係にあった。大徳院周応の姉は、大宮寺正純と婚姻して大宮寺明純を産んだ。
正純の父良純は、正純の生母と離縁後に浄覚院の娘と再婚しているのが「高麗氏系図」にある。
浄覚院と大徳院は、大宮寺(本山派修験寺院。笹井観音堂配下)との関係から縁が構築された。
周応の子大徳院周乗が記した天保12年(1841)付け『九梅堂日記二』では、浄覚院泰純は周応が修した護摩で導師を務めたとある。日記には「導師は周応の高弟浄覚院泰純なり」と記される。日記の記述から、泰純は、周応の弟子であったのがわかる。泰純は、周応との師弟関係から訪問、宿泊、同道して大徳院関連の娯楽行事、学問会、法会には積極的に携わった。
周乗の詫び証文に登場する浄覚院とは浄覚院泰純を指すと言える。

②本山派修験寺院林蔵院
林蔵院は、山本坊配下寺院の正年行事職を務めた大徳院とは同輩である。
林蔵院は、住職名は周乗の日記に登場しないが、霞支配連携のため大徳院への訪問が散見される。
林蔵院は、入東郡難波田の本山派先達修験寺院十玉院の霞に山本坊所縁の山伏が滞在するので霞場を借りたい旨の申請を大徳院と連名でしたのが十玉院側の史料にある。

福寿寺所蔵の明和5年(1768)付けの「山本坊配下・年行事・同行覚」では「准年行事」の項で「入間郡寺山村 明和五子年、正年行事二成 林蔵院」とあり、同覚が作成された時期に正年行事職へ昇格したのがわかる。
正年行事職とは、聖護院の定義では「霞を上官から与えられて支配を執行する職」とある。准年行事職は「霞を上官から借りて支配を執行する職」とある。

③本山派修験寺院持宝院
持宝院は、前述の山本坊配下一覧では、「山本坊附」の項で「入間郡之内 森戸 持宝院」とある。
大徳院とは同郷であるが正年行事職の支配に属さず山本坊直配下寺院として位置づけられた。
持宝院は、住職持宝院明慶が大宮寺良純と共に東林寺教純門下において大徳院周応の兄弟子であった。

周応より明慶は年長かつ兄弟子といった格上の関係も考慮されて大徳院に属さず、山本坊直配下に入ったと想定できる。
同郷かつ同門の大徳院と持宝院の関係は親密で法会、学問会、同道などで頻繁に交流した様子が「九梅堂日記」に記される。
同日記には、明慶の子了慶、了慶の子経慶が登場する。
天保12年(1841)に了慶が登場し、同14年(1843)には「持宝院附弟経慶」が確認される。
周応の詫び証文に登場する持宝院は持宝院経慶を指すと言える。

以上、大徳院周乗の詫び証文に登場する3寺院の来歴を触れた。いずれも親類、法統、正年行事職での繋がりと大徳院と緊密な関係を構築していたのが『大徳院日記』、葬儀執行した山伏の動向からわかる。
なお、系譜・師弟関係は横田稔編『武蔵国入間郡森戸村 本山修験 大徳院日記』、高麗神社刊『高麗神社史料集第二巻』を参照した。

おわりに

今回は、大徳院周乗の詫び証文を取り上げた。父大徳院周応の墓石は現存している。墓石の裏側には周応の来歴と深い学識が記され動向の一端がわかる貴重なものとなる。
その関係は、縁戚関係、職責、師弟関係から構築されたものでいずれも親密さが根拠となった。
史料を読む際にも登場する山伏の関係を検討するのも有効な調査法となるだろう。


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