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32 日本の神々に対する理解と交流(理解編1)

今年から意識的に神社で祈る機会を増やしているが、それに伴い私の日常生活で日本の神々とのささやかな交流が始まっている。

そこで、私が日本の神々に関して理解できたこと、日常での交流について語ってみたい。

神道に関して世間で認知されている一般的な知識については、書籍を読めば済むので説明を割愛し、ここでは私の内的な啓示と直観により知り得たことを記載する。

神道における神々は、キリスト教における絶対神GODではない。

これらの神々は、地球に住む人間の進化段階などはるか昔、数億年〜数万年以上前に卒業されている。

救済のために降りる稀有な例はあれど、その後は高次元から我々人類を含む生きとし生けるものの霊的進化、その舞台である地球環境の保護、さらにはその地球自体の進化を導かれている。

生きとし生けるものに空気や水、糧を与える循環システムを創造されたのは絶対神だが、高次元の神々がその設計の一部を担った。そしてその神々の指揮のもと、精霊がその運用を行っている。

つまり、日本の神々は絶対神GODではないが、その絶対神の計画の遂行の指導者層であり、限りなく絶対神に近いハイレベルな高次元の存在である。

もちろん、神々の間でもそのレベルの差はあり、地球に転生して修行された方もいれば一度も転生されたことがない方もいる。

神社では神が祀られているが、その神は前述の通り高次元の存在であり、地球に転生された経験のある神をも祀るということは、人間をも祀っているということでもある。

遠い彼方の昔に人であった神は、文字がない頃から口伝、言い伝えを通じて一部の方々の先祖神として敬われた。一度も転生されていない高次元の神も当時の人類に感知され敬われたが、勝手に自分の祖先とみなして崇拝しているケースもあった。

神話、メルヘンなどの口伝、言い伝えには誤りや意識的、無意識問わず真実に対する改ざんも多いが、それでも真理、本質は失われていない。

その場合、それが権力闘争のための策謀、工作によるものであれば、神々と何の結びつきも生まれないし時には天罰も降るかもしれないが、純粋な崇敬心によるものであれば、その純粋度に応じてその神とコネクションができるし、加護もしていただける。

そもそもネガティブな謀により祀られた場合は、その場所もネガティブなエネルギーが残り、神域になり得ないから持続性はなくいずれは消え去る。

それが千年、二千年という悠久の時の試練を経て今も特定の人々の先祖神として、子孫でない人々からも厚く敬われているということは、実際にその神は高次元の存在であり、人々の純粋な崇敬心が支えとなり、その神は本来なら縁がなかった人々も快く受け入れられた、ということである。

ただし、その時の試練がまだ数百年程度の、武将、学者、軍人、政治家などが祀られている場合は要注意である。

現在神社で祀られているのは神々、高次元の方々だけとは限らない。

政治的思惑または一部の関係者の利害に基づいて高次元のレベルにない存在が祀られている場合は、参拝しても高次元のエネルギーは降りてこない。

その場合は、もう数百年も時が流れれば、その神社は存在していない可能性も高い。本当に個人として尊敬できる方が祀られている場合は純粋に参拝すればよいが、そうでない場合は、高次元のエネルギーを受け取ることはできないので参拝は不要である。

人が祀られている神社はそのような判断が必要であるが、例外は護国神社である。

祀られているのは明らかに神ではないが、純粋に国、家族、未来をつないでいく子孫を守るために戦った方々であり、我々はその方々を敬い祈るべきである。

前述した武将、軍人ら、戦争を起こした指導層とは異なり、野心も功名心もなく何ら自由も権限もないまま運命を達観して受け入れて、逃げずに戦いこの世を去っていった方々は皆、等比級的に霊的進化をなし遂げ、今も子孫である我々を見守ってくれている。

なお、地球に転生された経験がないか、あっても数億年の昔(考古学的に人類はいないはずで矛盾するが)である高次元のハイクラスのマスターが、日本の神々として神社で祀られているわけだが、これらの方々は日本の神々だけではなく、ヒンドゥにおけるデーヴァやギリシャ神話における神々と同一で、世界各地で呼ばれ方が異なるだけである。

アンコールワットに彫られたヒンドゥーの神々

その点において

宗教間の争いは無駄、矛盾、さらに不敬ですらある

ということだ。

また人を神として敬うケースでも、たとえばイエス・キリストや釈迦牟尼も人だったが、実質、神と呼んでよい超高次元のマスターであるから、あまり神か人かという分類は意味を成さないのではないかとも思う。

私は基本的にあらゆる宗教団体とは距離を置き、信じるのは自分のハート、魂であり、自分の外にあるもので信じられるのは絶対神GODのみであるが、ここまで記した内容を踏まえて様々な神々を敬い祈り続けたいと思う。

なお、絶対神GODには感情がなく、あるのは愛だけである。それ故に人間に罰を与えることはない。

我々人間が神の愛を感じられず、むしろ罰を受けているように感じるのは、当人自身のカルマによるものである。

日本の神々も絶対神GOD同様に愛に溢れているが、その他の感情も豊かで、神々ごとに性格も異なる。

全く姿を現さない方、人間との交流の仕方が控えめの方、交流に積極的な方、様々である。それは神様一人一人の性格の違いもあるし、立場も違い、人それぞれとの縁の違いもあるからだろう。

たとえば私の守護天使の女性(記事6)は、清く正しく美しくをモットーにしているような方だが、日本の神々はもっとおおらかである。

キリスト教の影響を受け続けてきた高次元の方は一つの不始末も避ける厳格な傾向があるが、多神教の文化では、一つの不始末を起こしても二つ善行を積めばよい、という感じである。

私の守護天使や私の前に現れた白のマスター(記事15)は、私と縁のつながりが深いので私の霊的進化を見守るのが使命だが、日本の神々は冒頭に書いた通り、私だけではなくその他の人間、動物、草木など全ての生きとし生けるものから岩石などの鉱物や星々、森羅万象の進化発展を導き守っている。

そして、日本の神々もまた高次元の存在でありながらさらに進化発展を遂げようとしている。

私たち人間が日本の神々を敬い、祈りを捧げれば捧げるほど、神々との独自の縁が生じて深まっていき、神々もそれを喜び、より強く加護しやすくなり、神々もそのエネルギーを通じて進化されていく。

神々はおおらかといっても、我々が神々自身または神社などの神聖な領域を悪く言うと良い反応をされない(記事29)。

絶対神GODとは異なり、時には怒り、天罰といわれるものを与える場合もあるようだが、普通に敬意を払って参拝していれば何ら問題はない。

私があるとき見た光景で驚いたのは、都内の神社で犬を連れた参拝者が境内で犬に排泄させ、その排泄物を始末していたことだった。

私はNGではないかと感じたが、その神社はペット用のお守りや祈祷も扱う特殊な神社だったので、神社側も参拝者もおおらか、そして神々もおおらかなのかもしれない。
(であるといいですね)

さて私が神々に関して理解できたこと、日常での交流を語る予定のうち、前半はこのくらいにしておく。

今回の記事はここまでとして、日本の神々との日常での交流については次回に改めて書いてみたいと思う。

いつも記事が長くなりがちなのでそれを避けるためでもあるが、交流内容についてはいささかセンシティヴというか、読む人が読めば私が特定される内容も多く、また、私の個人的交流という性質上、書いて公開するのは神々も喜ばれない可能性があるかもしれないからである。

そのため書いていいかどうか判断のために少々時間をいただき、よく厳選した上で、事例を紹介していきたいと思う。

以上、読んでくれてありがとう。

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