Federal Advocacy ―日米の政策決定過程の違い―
2025年春学期にFederal Advocacyという授業を履修した。DeepLにこれを訳してもらうと連邦政府の提言となったが、少し訳が違うと思う。Advocacyに完全に合致する日本語は思い浮かばないが、これは自らの信条の実現手段、行政や立法府、ひいてはPublicへのアプローチ手法を指す。この授業は、米国の政策決定過程やそれにどうLawyerとしてアプローチしていくのか、という手法を勉強する授業で、実際にCommitteeを想定したMock-Hearing(模擬公聴会)をやったり、自分の政策をアピールする動画を作ったりと、実践的な内容だった。
―閣法と議法
日米の政策立案過程の比較において最も顕著なのは、法案の提案者が誰か、という点だろう。日本の国会で通る法案、特に重要法案はほとんど閣法だ。内閣法制局のHPによると、第211回国会において成立した閣法は58件、議法は13件で、他の常会も大体同じくらいの割合である(出典:過去の法律案の提出・成立件数一覧(内閣法制局)https://www.clb.go.jp/recent-laws/number/)。
翻ってアメリカでは、そもそも閣法が存在せず、法案提出権限があるのは議員のみである。また、日本では閣法が圧倒的に多く、その一方で委員会日程が非常にタイトであるため、各省庁はその国会日程で確実に通せる法案のみを提出し、その成立に全力を注ぐ。通る見込みのない閣法を提出するのは役所のリソースの無駄遣いである。他方、アメリカでは法案提出が議員の活動実績を示すため、議員は否決上等で数多くの法案を提出し、結果として提出法案の5%しか成立しないそうだ(教授談)。閣法をなるべく確実に通そうとする日本の法案成立過程とは根本的に考え方が異なる。
勿論日本でも議法は多く成立するが、感覚的に、議法は理念的な・誰もが反対しない法案か、野党から政権に対する対抗措置的な位置づけであることが多いだろう。勿論アメリカにもこうした趣旨で提出される法案もあるだろうが、日本の閣法成立プロセスにおける、役所が主要議員に“ご説明申し上げる”感覚は、成立過程の違い故アメリカには存在しない。教授はSenatorがイシューを一番よく知っている、と言っていた。
勿論日本の国会議員も(閣法であっても)法案に思い入れを持ち、強くサポートすることもあるだろうが、やはりこの仕組みの違い故、日本の場合、全体として議員自身の“自分が・法案を・通す”感覚はアメリカよりは薄いと思う。
アメリカの方法が100%優れていると言いたい訳では無いが、米国式の優れた点の一つとして、個々の議員が個々の法案にDrafterとして思い入れを持っているが故に、法案成立後のフォローアップもなされ、制度が機能しているかトラックされていくのでは、と考える。法案は成立がゴールではなくスタートであるが、
最近の日本の閣法を見ると、法律に定められているのは理念的な部分がかなり多く、制度の核心的な基準なり規制なりが政令や省令に落ちていることも珍しくない。政省令の方がフレキシブルで時世の変化に柔軟に対応できるのは事実だが、ある法案の成立時にある所管大臣が「法案成立に感謝、これから省令を定めていくので、いい制度にしたい」と述べていて、いい制度かどうかを省令が決めるのか…と少なからず違和感を覚えたことがあった。
役所は常に“次の提出法案”を抱えているのでそれに忙しく、また各役所にとっての有力議員は固定メンバーになりがちなので、そうした議員も次の法案に忙しくなる。立法府側に既に成立した個別法案のサポーター/モニターがいることは制度のフォローアップという観点で有用で、米国式だとその確率が日本より上がるであろう。選挙で選ばれた民意の代表者が三権分立に則って政権をモニターすることは、民主主義の本質に沿っている。
―政権交代とAgencyへの影響力
アメリカの行政で働いた経験のある人に話を聞くと、役所(Agency)は時の政権(Administration)の意向や指示に従うもの、という感覚が強くあると感じる。FCCでの勤務経験のある米国人Lawyerの方に話を聞いた際、規制を好むDemocratic Partyの政権の時は多くの規制が成立し、市場原理を優先するRepublic Partyに代わると前政権で成立した規制が次々に廃止されていく、まるでピンポンゲームだ、だが政権の意向に従うのが原則だ、と述べておられた。
個人的には、政権が変わるたびに今まで自分がやっていたことが無駄になったりするのでは、虚しくなるのではなかろうかと勝手に心配してしまうが、そもそもアメリカは一つの組織に長く務める企業文化ではないので、役所での仕事はもういいわ、と思った職員はすぐに転職するのだろう。
日本ではそもそも政権交代が起こりづらいので、政策の方向性が時の政権が変わることによって完全に真逆になることはあまり想定されない。勿論時の首相の意向に従うという大前提はありつつ、“政権主導”という言葉が比較的最近生まれたこと、かつては“官僚主導”と呼ばれていたことからしても、AdministrationがAgencyに与える影響力はアメリカより日本の方が小さい。これにはドラスティックな政権交代が起きるかどうかということが少なからず影響していると思う。
―法案プロセスとTransparency
日本の法案プロセスを鑑みると、本会議や委員会など国会“本番”に行く前の、党の部会やインナー会合・議連といったクローズな会合が実質的な有識者ヒアリングや意思決定プロセスとして機能している感がある。他方、アメリカの場合は(勿論インナー会合もあるだろうが)委員会の公聴会が実質的にも手続き的にも有識者ヒアリングとして機能しており、本番勝負型であると言える。
この仕組みの違いは、二大政党制、ひいては与野党の議席数の差に起因しているように思う(日本の根回し文化も勿論関係しているだろうが)。日本では与党プロセスを突破できればほぼ自動的に本会議でも法案を成立させられるので、おのずと与党プロセスに力点が置かれるようになる。そうすると、平場まで行ければその時点でほぼゴール、という感覚になりがちで、それ以前の党プロセスに全力を尽くすようになり、どうしても一般国民の目が届く平場での議論は予定調和的になりやすくなる。与野党に議席数の差があると、国民目線でInvisibleなプロセスが増えてしまう。議席数の差はこうしたInvisible Processの抑止力にはならず、逆に作用する。
日本をアメリカに倣って二大政党制にすべきだと思っているわけではないが、一般的に、健全なDiscussionは拮抗する与野党から来るものだと思う(アメリカの大統領選の舌戦が常に健全だとは無論思わないが)。
最近の日本の国会を見ていて思うのが、本会議や委員会が司法のような場になっていて、特に少数野党が首相や大臣に対し“何を言ったか言ってないか”“YesかNoかで答えよ”という手法を好んで取っているように感じる。果たして国民は本当にこの手法が効果的だと思っているのだろうか、一国民として私はそうは思わない。
そもそも事実を認定することは司法のすることであって、国権の最高機関がする仕事ではない。勿論Fact findingは必要だが、それに基づく政策の方向性を議論するのが国会であって、Fact Findingそれ自体をするのはTrialではなかろうか。アメリカにもこういった追及方法はあるが、こうした“黒か白か答えよ”という風潮が行き過ぎると、それだけでは結論を出せない複雑な問題を深く議論できなくなり、一層のポピュリズムをもたらしかねない。また、こういった一見舌鋒鋭く見えるが本質的ではない追求手法が野党への支持を長期的に高めるとは思えず、結果として民主主義にとっては逆効果だろう。
―ロビイングとステークホルダー
先に述べたように、米国議員にとっては、何の法案を提出したのか、どの団体とコネクションがあるのかが議員としての活動実績に直結するので、どの議員も真剣に支援者や支持団体の話を聞く。有力議員へのコネクションは法案成立、ひいては企業の命運を分けるので、大企業ほどロビイングにリソースを投じるし、ステークホルダーはロビイングの有無で決まるとも言えるだろう。それ故、正しいAdvocacyで正しい人物に正しい主張を届けることが企業にとっても草の根の団体にとっても重要であり、また議員側も多様なステークホルダーから意見を聞く必要がある(the bill will never be common only from one stakeholder)。教授が、ステークホルダーにはphilosopher, engineer, history scholarも含まれる、と述べていたのは、アメリカにおけるステークホルダーの概念の広さを表している。
議員が法案提出者となるもう一つの利点として、“今まで気づかれなかった秘められたステークホルダー”が発掘されやすい、ということも挙げられるのではないか。役所主導の閣法だと、ステークホルダーは役所のリソース上どうしても政府傘下機関など役所と既にコネクションのある関係者になりがちだし、役所はどうしても“今まで聞いたことのない団体”を警戒しがちになる。フットワークの軽さには、議員の方に分があるだろう(これは別の問題も惹起するが…)。
より多様なステークホルダーから話を聞くことができれば、よりDotをConnectすることが可能で、よりよい政策提案に繋がる。議員が当事者となる議法にはフットワークの軽さから来るこうした利点もあり、今後日本でもこの手法がもう少し実体的になっていくと、より多くのステークホルダーが日の目を見られるのではないか。
―役所のAdvocacy
日本のGov Agencyの良い点として、社会問題に対する当事者意識が強いことがあるのではないかと思う。アメリカの行政機関は、政権が是と言えば是、否と言えば否、という政権の手足たる意識が強く、イシューに対してもう少し受け身な印象を受ける。日本の場合は、上述のように政権交代が起こりづらい故に、“いずれにしても自分たちが解決しなければいけない問題”という行政側の当事者意識が強く、責任感が相対的に強いと感じる。
授業で学んだAdvocacyという視点は、こうした日本の行政府や、ひいては企業にも応用可能なアイディアだろう。有力者といかにコネクトするか、Publicにいかに訴えるかという手法は、閣法やその他政策手段について“国会を通さねばならない”役所や、反対にそれを阻止したい企業にも通じるものであり、普遍性がある。
具体的な手法についてもう少し述べると、授業で目にしたクラスメートの発表は非常に刺激的で、学びになる点が多かった。紙の資料では、視覚に訴えかけられるかどうか、1枚にまとまっていることは大前提で、一瞬見ただけ/数秒で内容の要点を把握できるかに力点が置かれていた。また、Public Speechでは、クラスメートはみな相手の目を見て、原稿を見ずに、身振り手振りでアクティブに説明しており、原稿読みはいなかった。教授は「Advocacyにおいては議員からもらった3分で議員の支持まで取り付けること、そうした説明ができることが重要」と言っていて、常に聞き手・読み手の立場が意識されていた。
これは努力で習得可能な技術であり、日本流になれている私には練習あるのみである。
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