たこ焼きだ。たこ焼きを食べている。たこ焼きを補給している。

 毎日1時間のウォーキングが1週間継続できた。とても嬉しい。
 思えば昔から体力不足を感じており、少なくとも無職の間はこれを続けて改善を目指したいところ。ウォーキングコースに通ってるジムもあるし。

 それで今日はふと思い立ち、ウォーキングの帰り道にずっと気になっていた辺鄙な場所にある古いたこ焼き屋に寄ってみた。
 近所過ぎて場所を特定されたくないので具体的な値段は言えないが、少なくとも都会にあるたこ焼きの半額以上の値段でたこ焼きを買えるのでチャレンジする価値があった。

 そして、実際に訪れてみるとそこは更年期後の女性が一人で切り盛りしていて、あまりにもノスタルジックな店だった。
 チリンとベルを鳴らすと奥の住居スペースから店主が現れ、精算を済ますとカウンターの先で調理を始める。元々客がそう多い店ではないのか、仕込みは生地と事前に切っておいたタコぐらいで、都会で見るような高速調理などはない。
 だが、店主がゆっくり丁寧に生地をひっくり返していき、その姿を眺めている時間が何か楽しかった。


 それから、ずっとスマホを触っているのも何だかと思い話しかけてみた。

 すると、適当にあしらわれたりお互いの会話の手札がすぐに尽きてしまうどころか、意外にも会話が話が弾んだのだ。

 そこでは、20年を超える長い歴史があることや、ただただ続けたくて店を続けていることなどの昔話を中心としていたが、私の習慣であるウォーキングの話題から派生しスマホを通して歩数を図るのが最近楽しいなどの話も聞かせてもらった。

 この会話の時間がまた非常に楽しく、普段あまりしていなかったが、こういった老人が切り盛りしている店などで店主と会話してみるのも悪くないと思えた。何というか、他人と他愛のない話をすること自体を楽しめる人間なのだと自分自身を改めて理解するきっかけにもなった気がする。

 他にも、ネットやテレビで評価されたこともあるがそれ自体は素直に嬉しく思っている話もしてくれたのだが、実はこれが自分にとって衝撃的だった。

 何せ私が関わるこの手の老人は皆、やりたくて続けていたり、老化予防のためだったりする点は共通していても、客が増えるような口コミをあまり喜ばない(場合によっては常連の私や家族に愚痴る)ケースしかなかったからだ。

 『利益を出すにしても対応できる客数に限度がある』というただただ深刻な問題が理由であるため仕方ない話なのだが、そんな中で彼らと似たようなタイプの店の店主が口コミに強く好意的なのはどうしても意外だった。(※)
 
 この会話の中で、私はまだまだ人との関わりが狭く、世代を問わずもっと会話を重ねて見識を広めていくべきだなと強く痛感してしまった。

 
 そしてたこ焼きが完成すると、白い折蓋に盛られ、刷毛でソースを塗った上にマヨネーズとあおさと鰹節がかけられ私のよく知るたこ焼きそのものになった。
 本当は目の前で食べて感想を言うと考えていたのだが、蓋を輪ゴムで縛り袋に入れてテイクアウト状態で渡されたので余計なことはせず素直に退店した。次にまた来たときは感想を言おう。

 そして、たこ焼きは最近の質にこだわったタイプともまた違い、ある意味ではたこ焼きの平均値とも言える味だが口当たりも非常に良かった。
 だからこそしっかり美味しく、帰り道を歩いている途中ですんなり完食してしまった程で、所謂昔ながらのたこ焼きを地で行っている味。
 もちろん安さ故の心の妥協もあっただろうが、こういう『美味しい』もまたひとつの料理の形と言えるだろう。

 だがしかし、私は料理の味以上にこの店主とゆっくりとした会話の時間が楽しかった記憶が消えずにいる。
 それこそ、ただ美味しいだけの飲食店よりも強く印象に残っていたのだった。


(※)補足だが、口コミを嫌っているだけで彼らの料理は全て絶品の中の絶品であるし、そもそも常連として仲のいい関係であることは言及させてもらう。


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