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映画『正欲』を見て考える自分の欲望

毎日更新するつもりだったのだけれど、木金土となんだかバタバタしていて書けていなかった。くたびれ果てたまままた月曜日に突入する。毎週律儀にやってくる月曜日にうんざりもするが、月金で“普通”に働き、社会に適応している(少なくとも適応しているように振る舞う)ことにより、そうでない場合と比べれば想像することもできない何かを得てもいるのだろうと思う。

そんなことをこの深夜に考えているのは、昨日見た『正欲』という映画の影響を受けてのことだ。朝井リョウはデビュー時から注目を集めていたし、直木賞も驚くべき若さで受賞している。エッセイも人気だしトークショーも面白かった。頭の回転がとんでもなく速い人なのは疑いようもない。今作は原作を発売時に単行本で買ったものの積みっぱなしで、結局文庫化されてさらに映画化され、映画を先に見ることになってしまった。
見終わって、朝井リョウは本当にすごいなと思った。朝井リョウの原作に忠実なつくりの映画なのだろうということはなんとなくわかった。恐ろしい作家である。こういう人が同時代に生きているということは怖いことでもある。何かもうここまでくると神がかっている。

原作をまだ読んでいないし、映画考察なども趣味ではないのでそれはそのほかの記事に譲るとして、最も印象的だったセリフを忘れぬように書き残しておきたい。

「この世界で生きていくために、手を組みませんか?」

前向きで、力強く、「明日も生きる」という宣言であり、一方この“多様性”という言葉の内側で生きている人しか認めない世界に対するあまりに強烈な諦念でもある。
僕はこの人物たちと同じ生きづらさを抱えているわけではない。けれど、自分がどう生きたいのかと考えるとき、世界が許容する、多様性という言葉の範疇でしか思考できていない。そこから外れた生き方を想像できないし、実現する方法もきっとわからない。そのことを痛烈に感じさせる言葉だった。

作中には「親が死んで、よかったと思った」というセリフがあるが、これは本当に感覚としてよくわかる。
親を憎んでいるわけではない。むしろ愛している。育ててくれた親を悲しませたくないし、これから始まる老後の生活に少しの苦労もかけたくはない。だから、自分が彼らを絶望させる前に、幸せなままで、死んでほしい。
何かよくわからないけれど、きっと自分にも生きづらさの原因となるものがあって、それをはねのける欲望に従えば親を悲しませることになるのだろうということだけがわかっているのだ。

自分の人生にとって、何が大切だろうか。どんな欲望があるのだろうか。
今のところ、家や車が欲しいとは思わないし、高級な服もいらない。クラブやバーなどの都会的な場所に身を置きたいとも思わない。さらに言えば結婚もおそらくはしないし、仕事だけに一生を捧げようという気力も四年ですっかり失われた。
じゃあ、何をしたい? 誰かと手を組んで、生きていきたい気はするな。
札幌で生きたい生きたいというけれど、札幌に移住できたとしてもその後も人生は続くのだ。明日も生きたいと願う人のために作られた世界の中で。
そこで、自分は何をしたいか。敷かれたレールの上でしか走ったことがない自分は、本当は何を欲しているのか。
社会によって作られた「正しい欲」の形に自分に埋め込んで来たその思考を、きちんと自分の形に取り戻さなければ。どうしたいかもわからず、ただ言語化できない生きづらさだけを感じている僕のような人間こそ、一度多様性などという耳触りのいい言葉に囲まれた世界から、一度外へでなければならない。
この映画の主題はそういうところにあるわけではないし、自分でもまだきちんと消化しきれていないけれど、そんなことを考えさせる映画体験だった。

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