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大人になって観た『千と千尋の神隠し』も特別な映画になりました。

私が子ども時代を捧げた映画、『千と千尋の神隠し』。小学生の頃すでに全セリフを覚えていた。いつも何度でも暇さえあれば見ていたのでいったい何回見たのかわからない。どれくらい見ていたかというと、誕生日に千尋のプレートをサプライズしてもらったほどである。けれどもしかすると就職してから見たのは今日が初めてだったかもしれない。

いや、しみじみいい映画です。今でもセリフはほぼ映画と同時に言えた。子ども時代の努力の賜物である。こんなに何かに夢中になることは、きっとこの先もうないのだろう。最初は湯婆婆が好きで、次にリンを好きになり、やがて釜爺を好きになる。好きなサウンドトラックは「六番目の駅」と、ベタだけど「ふたたび」。千尋とカオナシが乗る電車の名前を「海原電鉄」だと知っているかどうかで同志を見極めていたものである。本気で銭婆の家に住みたくて、あの家に暮らしている自分を想像しながら眠った日々もあった。

ところが、人生の各ステージのいつ見たかで大きく印象が異なるのがジブリ映画のすごいところであり、だからこそ何度放送しても高視聴率を叩き出すわけだが、やはり社会人になった今見る「千と千尋の神隠し」はこれまで見ていた「千と千尋の神隠し」とは少し違っていた。

たぶんどこかでいろんな人が言っているだろうけれど、この映画は資本主義に飼いならされた人々、そしてそこにある苦しみを描いているのだと気がついた。

そのうち来たらお金を払えばいいんだから。

お母さんのセリフはその象徴だ。これはカオナシが砂金で全てを手に入れようとする様子とぴったり重なる。

わしは客だぞ、風呂にも入るぞ、みんな起こせ!

金を払えば食べていいと思わず、そしてカオナシが出した砂金を取らなかった千尋だけが、この世界で資本主義の外にいるのだ。そして彼女がカオナシに飲まれた3人を救い、両親を救い、そしてハクを救うのだ。(そんな世界で生活や従業員を守るためにきちんとお金のことを考え、そのうえで「お客様とて許せぬ」と言う湯婆婆も本当に立派な人物だ。)

そう考えれば、千尋だけがお金のために働いていないとも言える。千尋は、働かなければ動物に変えられてしまうところに突然放り込まれた。つまり生きるために働いている。何かを手に入れるためではない。そして、そのなかで信頼できる同僚を見つけ、どうしても守りたいものを見つけ、顔つきや行動が変わっていく。四駆の車(アウディ初代A4)の後部座席で生気のない顔をしていた少女は、階段を一人で降りるのも難しかった少女は、誰かを守りたい一心で、自分の手と足で力強く突き進んでゆく。

なかなかできないことだ。けれど、現実世界でもこれができている人は実はいるよな…などと思ったりした。例えば、本当はお金のことを考えればもう働く必要がない人は何人も思い浮かぶだろう。ベストセラー作家も、なんらかの事業で成功した人も、芸能人や歌手も、そんな人はたくさんいる。彼らの働く理由はお金ではない。それはまあ極端かもしれないが、そこまでいかなくとも、本当は働かなくても生きていけるのに働いている人はいる。あるいは、お金は必要だけど、お金のためという意識は薄くて楽しいからやっているという人も。最近会った人だと、造園業や研究者、建築士、教師の人たちはそんな感じだった。そんな人たちはまぶしい。そのまぶしい人たちは、周囲を救うのだなと、今日見た千と千尋は教えてくれた。資本主義の中で生きていくしかないのだとしても、そうした人がいてくれることが、何かしらの救いになるのだ。

だから、悲しみは数え切れないけれど、いつも何度でも、夢を描こう。
企業のブランドや生活に必要な分以上のお金に対する欲、これまで積み重ねて来たもの、両親や油屋で働く人々と同じようにいろいろなしがらみを抱えながらも、それでも私は夢を見続けたい。

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