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「障害論」を超えて


私がフリーフォームの音楽しか演奏しないピアノ弾きである、というとき、フォームが必ずしも演奏できないわけではありません。「しない」と「できない」の違いは大きいし、私の場合「できない」に近いのですが、フォームへの遠い憧れを抱きながら、なおかつフリーの可能性に賭けるという自家中毒的視点が、思考法にも多分に現れています。だから思考における逸脱、つまり狂気はやむをえずやってきます。

差別する思考と、自由ということは真逆の考え方です。差別は自分と他者との関係、「上から(下から)」見ることを固定化します。スタティックな社会構造の肯定です。それに対して自由である、ということは、すべてひととひととを関係性の中において認識し、感じ、生きるということです。当然他者の自由も脅かさない。

すべて関係性の自由の中において、世界、宇宙を認識することは、感性の強靭を要求します。意識無意識を問わず、自らよりも「下」の階層を持つことによってのみ安定する個性は差別的です。

本来的に不可触であった物狂いのひとびと、「狂気」を「精神障害」とくくり、差別の構造の中に丸め込んだ近代理性は、精神の自由をもその内側に丸め込むことに成功しました。そう、近代理性はそのそもそもの成り立ちからして自由ではないのです。繰り返しますが、近代理性は狂気を疎外することで成り立っているからです。「精神病理学」の誤りは、カオスである狂気を秩序だって論述しようとすることからはじまるのです。


ただ、しばらくのあいだ、私は「精神医療」について書けなくなっていました。

少なくとも言えることは広くも狭くも私の社会性の欠如。狂気、その逸脱と社会性の欠如といった私のメインの視点が「はやらない」のではないかという恐怖。もちろんそれだけではありません。狂気からの回復とその至福といった項目については、私なりのアプローチがありますから、決してそれで書けなくなる理由にはならない。

ただ、私が大きな流れから外れてしまっているのではないか、という「恐怖」。

ある友人が指摘したとおり、私がこの数年試みてきたことは、「狂気」を経た自分、障害者としての自分を差別化し、峻別し、逆に差別するものとも取られかねない、「障害者よ誇りを持て」というアジテーションでした。「障害は個性だ」というかつての強い先輩たちの訴えの軽い遠鳴り…

少し遠回りして余計なことばかり言っているようです。

ある夜私は夢を見ました。私はそれに感動し、もう一度生きようとしたのですが、その夢を克明にたどることはあるひとのプライバシーを明かすことでした。ひどく漠然としたいい方になってしまうのですが、ひとはそれぞれにあればいいのだということ、ともに生きていればいいのだということ… 峻別し、「よりうえ」に立とうとしなくても、仲間はともにあり、生きているのだということを、その夢は直接に間接に教えてくれました。

私は私の言うスタティックな差別の構造を、結局は肯定していく貧しい生き方を捨て、新たなる豊かさに向かう第一歩をここに記さねばなりません。しかし、それにどんな言葉がふさわしいか…

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