見出し画像

捏造としての近代 序  癒えたある病

「捏造としての近代」という論考にはいる前に、「狂気」「精神病」が「西欧近代」による捏造であると断じざるをえなかった私の個人的事情をすこし述べておこう。

私がかつて、そしていまも「精神病と呼ばれるものであった/ある」ことは私の読者の方々には周知のことであるだろう。そのこと自体による心の傷は癒えつつあるけれど、「精神が病んでいる」とされ、質的にも量的にも疎外され続けた怨念は消えはしない。そして疎外=Alianaiteが名詞化されたとき、それが狂気を意味するというある精神科医の論考に出会ったのだ。質的に疎外された理性以外のものすべてを、西欧的思考では狂気と呼ぶのだという知見は、その後の私の精神医療・福祉・差別などの問題に対してアプローチをするについての底流をなすテーゼとなった。ここではこれ以上の言及を避けるが、興味のある方はさかのぼって私の論考をご覧いただきたい。言い換えれば、対比する「西欧近代理性」がなければ、「精神病」は存在しなかったということになる。

「病」が優れて「文化的」なものであるという指摘は、私などがするまでもないだろう。それぞれの「文化的文脈」によって、「病」はその定義、「存在」すら異なるということ... これも数々の文化人類学の成果のうちのひとつだ。細かく言及はしない。例えば呪術の体系が「西欧近代医療」に劣ることがないという事実のように、例示はきりがない。

私も含めて、ひとは時に生存・生活には不要かもしれない過剰なるものを宿す。過剰が様式と表現で割り切れれば、そのひとりは表現者・芸術家、ときに天才として共同体の中で存在価値・意義、生きる場所をえられるかもしれない。だが多く共同体のなかで違和を覚えるほどの過剰を抱いた個は、「狂人」として疎外されるだろう。少なくとも「西欧型市民社会」においては。私はその典型だった。表現するツールとメディアがなかったのだ。そしてながい放浪の期間を経て、私はネットによって表現ができる。西欧近代によって疎外されたものが現代のシステムによって「救われる」。なんという逆説であろうか!

「病」そして「癒える」ループに、自然回帰でない、こんな事象もある。今日はここまでにしておこうか。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?