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子どもの人権とは?

「子どもの人権」について考えてみた。

「子どもの人権」とは、子どものうちにあらかじめ備わった不可侵な自然の法のようなものではない。

「子どもには○○の権利がある」といった表現が使われても、子どもにどう関わり、子どもをどう扱うのを「正しい」とするかの社会的な「決めごと」「約束ごと」が、そうした表現を取るだけである。


これは、たとえば『子どもの権利条約』のような「条約」としてそれが示される事実からも分かるだろう。

条約とは国家間の約束である。

また、『子どもの権利条約』は、大人が起案し、大人の間で締結されたものである。ここからもわかるように「子どもの人権」とは、大人の間での約束ごとである。


この約束の背景には、子どもたちを自分たちと同じく一個の独立した人格とみなそうという大人たちの考えがある。

大人が絶対的で子どもはそれに従属するものとする子ども観から、子どもも独立した主体的な人格とする子ども観に移ったため、子どもに対して大人はどうあるのが正しいのか、改めて問われることになった。

それの答えが「子どもの人権」だろう。『子どもの権利条約』は、大人たち同士の約束と大人から子どもへの約束のみで、子どもから大人への約束はない。

「子どもの権利」に対して、子どもに「権利」があるなら「義務」もなければおかしい(権利保障だけでは片手落ち)という意見は、この意味で正しくない。「子どもの権利」とは、あくまで大人の間での(子どもにはいわば一方的な)取り決めなのである。

これは、大人と子どもとの関係が「養育関係」という非対称な関係を本質するためである。大人と大人とが社会的にはまったく対等な個人同士として対称的な関係を結び、権利一義務を分かち合っているような関係ではない。

もともと法的な「権利」「義務」の約束は、そうした対称性をもった社会的関係を前提としたものである。

これに対して、「子どもの人権」とは非対称な関係に基づく大人側の取り決めである。

両者が対称的な関係となった時とは、子どもが大人になった時である。

子どもを独立した(その意味で大人と同等な)存在と見なすことの「正しさ」と、子どもと大人とは対称の関係ではなく子どもは被養育的な(その意味で大人に保護監督される)存在とみなすことの「正しさ」との間には、ときとして矛盾や葛藤が生じる。

「人の正しさ」が矛盾の一つかもしれない。『子どもの権利条約』でも、子どもを一個の主体的な個人として守ろうという条文と、まだ弱い者として護ろうという条文とが一緒になっている。


この矛盾は、社会的には「子ども観」の対立としてさまざまな場面で現われてくる。一例をあげれば、少年犯罪に対して社会制裁的に対処すべきか保護教育的に対処すべきかといった対立の背後にあるのはこれだろう。

家庭の子育てにおいても、大なり小なり、何らかの矛盾や葛藤が現われるに違いない。けれども、これはどちらか一方を正しいものとして解消すべき矛盾ではないだろう。むしろ、この矛盾と葛藤があってこそ、それを通して子どもは大人になってゆけると考えるべきである。

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