歌詞と言葉と心の広さ

 私は基本的に邦楽しか聞かない。洋楽やK-POPを聞くことはほぼ皆無だ。理由は簡単で、何を言っているかわからないからである。
 私は、ある楽曲を好きになる基準の一つに、「その歌詞で描かれていることを思い描くことができるか」ということがある。ラブソングで「ある男が昔付き合っていた女のことを忘れられなくて、寂しさを埋めるために適当な恋をするが、全然満たされなくて、結局あの子しかいないんだと再確認する」みたいな内容だと、本当によく頭の中で描写できるし、そういう感情を理解することもできる。自分事のように胸を痛め、失恋の喪失感を覚えることもできる。そういう楽曲は、いつの時代のものに限らず私の好みである。
 より好みであるのは、歌詞カードを見なくても、歌詞がしっかり聞き取れるものだ。そういう楽曲は、少し昔のものに多い。昭和歌謡や平成のバラード、少し世代が上の歌手の楽曲など、私の年齢のわりに大人びた印象を抱かせるものだ。
 たとえば、中島みゆき。「糸」「時代」など代表作はもちろん、BOSS缶コーヒーのCMで使われた「ヘッドライト・テールライト」、「化粧」など圧倒的な声量や聴き手を惹きつける歌唱力はもちろん、「何を言っているかしっかり聞き取れる」歌詞も評価が高いポイントである。
 また、浜田省吾。「もうひとつの土曜日」「悲しみは雪のように」「19のままさ」など、ややスローテンポな楽曲の歌詞は聞き取れる。それに加え、「J.Boy」や「MONEY」などアップテンポなロックも聴き手を置き去りにしない。
 最近の楽曲は早口なものが多く、何を言っているか聞き取れないため、私は少し敬遠してしまう。
 このように、私は歌詞を聞いて、そこに描かれている情景を思い描くことで、その楽曲を味わっているのだ。

 そんな私は、残念ながら語学力がないばかりに、洋楽やK-POPの魅力を感受することができないのだ。周りで洋楽やK-POPを楽しんでいる人は、楽曲のメロディーやリズム、歌詞など様々な面から楽しんでいるのだと思っていた。
 ところが、そういう私の認識が変わる話を聞いた。ある芸人がやっているラジオでのこと。そのパーソナリティは「みんな洋楽って何言っているかわからないけど、雰囲気で楽しんでいるんでしょ」と言っていたのだ。(え、そうなの・・・?)私は驚愕した。よく聞いていくと、その言語を母語としている人にとっても、何を言っているかわからない場合があるらしい。なぜ好きかと言えば、「ノレるから」「なんか良いこと言ってそうだから」「雰囲気が良かったから」。そこで歌詞を調べたら、あまりにも薄っぺらいことしか書かれていないから期待を裏切られることがあるらしい。
 それを聞いて、なんとなく安心したのだが、ということは歌詞をしっかり味わっていくスタイルの私は永久に洋楽やK-POPを楽しむことはできないのではないかとも思った。洋楽やK-POPに対するハードルが下がったと言えば聞こえは良いが、できれば自分の幅を広げるためにも、楽しめる楽曲に出会いたいと思っているところだ。

 そういうことを考えているとき、私はふと別のことにも考えが及んだ。以下では、洋楽やK-POPと広く考えるのではなく、あえて英語やアメリカと範囲を狭めて考えていく。
 アメリカに行ったことのある人がよく言う「英語は全くわからないけど、その場の雰囲気や勢いやジェスチャーで何とかなるものだよ」ということが、実はとてもすごいことなのではないか。ここからはそういう話だ。
 バラエティー番組で出川哲朗さんが「出川イングリッシュ」なるものを使って次々とミッションをこなしていく姿を見たことがある。出川さんの英語は、学校英語しか触れていない私から見てもひどいものである。「なぜあれが通じるのか」と番組のナレーションでも言われているくらいだから、違和感を抱いているのは私だけではないはずだ。でも通じる。
 あれが成り立つのは、出川さんがすごいのではなくて、受け取っているアメリカ人がすごいのではないか。歌詞のことを考えていた私はそこに思い至った。つまり、出川さんの英語を理解していたアメリカ人は、雰囲気で理解するということができる人だったのだ。その人数が多いからこそ、出川さんはアメリカという地でミッションをたくさん達成することができたのだ。
 こういうことは、日本でも起こりうることなのだろうか。もちろん、外国人の片言の日本語で雰囲気を感じ取り理解する人もいるだろうが、多くの場合は理解できないのではないだろうか。もっと言うと、そういう片言の日本語を浴びせられることすら拒むということもあるだろう。
 私はそこに、外国と日本の度量の差を認めた。

 私が楽曲を雰囲気で味わえないように、外国人が片言の日本語で何かを伝えようとしていることも雰囲気で理解できない人はいないか。私もそうかもしれない。日本にそういう人が多いとすると、これからの日本はとても窮屈な国になってしまうのではないか。
 外国人観光客や外国人技能実習生などを受け入れるとき、日本語に不自由を感じる人だったら、その人は生活できなくなってしまう。そもそも「言語の壁」という大きな障壁に阻まれて日本に来ることを諦めてしまうかもしれない。
 そういう度量の狭い国になってほしくないと思ったのだ。
 かくいう私こそが、雰囲気で楽しめない度量の狭さを持ち合わせているので、自分事と思いながら、少しずつ雰囲気を味わうということをしていけたらいいと思った。
 まずは、Queenの映画「ボヘミアン・ラプソディ」でも見ようかな。

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