見出し画像

普通の恋をしたい人は、きっと少なくない

「大多数の人間」という便利な言葉がある。

それはどんな人間か?

おそらく朝起きて朝食をモグモグやって、

身支度を整えて会社や学校へ行く。

朝から夕にかけて仕事や勉強をして、

昼にもきっとモグモグ。

夜にお家に帰ってくる。

夕飯をまたモグモグやって、風呂に入って寝る。

そんな生活をほぼ毎日やる。

それが「大多数の人間」だろう。


話は変わって世の中には「恋」というものがある。

どんなものかと簡単に言えば、

特定の人物を特別な意味で好きになるということだろう。



恋は基本人間と人間、つまりは大多数の人間同士で行われる。

同じようなことを毎日やって、同じようなことを毎日考える同じような人間同士が、

同じような人を好きになる。

だから人の恋なんて、みんな同じようなものになる。

ハズなのだが……、なぜか恋は十人十色だ。

おんなじような人がおんなじようなことをするのだ。

決まった手順のようなものがあって、

それに従えば良し悪しの違いはあれど、

何らかの結果が出るはずなのだ。


けれども人は自分の恋で悩み、苦しみ、

ときにこれは自分しか経験しない問題だと絶望することさえある。


かく言う私も、男性に一切興味のないレズビアンを好きになったり、

二人もお子さんがいる歳上の女性が頭から離れなかったりする。


きっと人々の中には、こんなふうに考える人が少なくないだろう。

「普通の恋がしたい。

身近な普通の人と恋に落ちて、

結婚をして家庭を築きたい」


いくら多様性が世の中に広がってきても、

恋愛による幸せは無視できない。

そしてその恋愛による幸せは、

こう言う人とこう言う風に結ばれて、

こうなりたいという理想。

つまりは「普通の恋」がいまだにあるのだ。


なんでこんなことが起こるのか。

きっと相手を好きになることで、相手の微細な部分も見えてくるからだろう。

好きになることによって物理的にも精神的にも距離を詰めようとする。

すると「大多数の人」の微細な違いに目がいく。

そんな微細な違いは自分自身にも存在し、

互いが互いに違う人間であると明確に分かるようになる。

違いとは例えるならヤスリの目のようなものだ。

目の細かいヤスリでも、ヤスリ同士を擦り合わせたなら、

生じる摩擦はかなり大きい。

それが恋愛における障害の一つであるのではないだろうか。


「普通の恋愛」なんてものは存在しないのかもしれない。

人が普通の恋愛と思っているものは、人々が思う「理想の恋愛」でしかないのかもしれない。

この記事が参加している募集

新生活をたのしく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?