【働く論考】労働と仕事 意図的な倒錯の主体_総論
前提の再掲
(線内再掲_本稿からご覧いただく方向け、前提の説明)
「はたらく」という言葉が労働と仕事に分かれず、意識されない状態であることは前項までに述べてきた。
この記事では倒錯が意図的に行われていることを記載していきたいと思う。
意図的にそれを行うには誰が得するのか、なぜ得するのかという構造を詳らかにしていく。
多くの場合「はたらく」という言葉において、本来「労働」であることを「仕事」であると思わせる構造となっている。
つまり、生きるために義務的に行なっている活動に対して、それはあなたがやりたくてやっている活動ですよということを主張するという構造になる。
この構造がわかるだけで、誰がどのように利益を得るのかが分かりやすくなってくるはずだ。
労働であることを仕事だと思う(思わせる)ことで得をする人メリットのある人は誰だろうか。
少し視野を広げて洗い出してみる。
1.つまらない仕事を依頼する事業者
2.部下のやる気を引き出したい管理者
3.自らの労働意欲を振り絞りたい労働者
4.対価以上のサービスを受けたい消費者
各立場から見られる構造の概要
それぞれの立場から論じてきたものを簡単にまとめると下記のようになる
1.つまらない仕事を依頼する事業者
この時、事業者は労働者に対して一定のお金を払ってある労働と交換するわけであるが、同じお金を払うのであれば時間当たりの生産性を高く働いて欲しい訳だし、教育した労働者には長く働いて欲しい。
つまり、誰がどう見ても労働として行っている活動を仕事だと見せかけることで事業者にとっては大きなメリットがある。
むしろ、労働であることを主張するメリットは少ない。
2.部下のやる気を引き出したい管理者
もちろんこの管理者自身も労働者であり、それぞれが労働を評価され自らの賃金を得る立場である。
管理者においては自らの部下や管理すべきメンバーに対して、先程の事業者と同じ構造によるモチベートがその動機となる。
この点、本来労働者として同じ立場である管理者に対して、労働者同士の階層構造を作り管理責任を労働とすることで労働の対価を安価に提供する仕組みは事業者にとって極めて都合が良く、労働者にとっては悲劇的な仕組みと言わざるを得ない
3.自らの労働意欲を振り絞りたい労働者
生きるための労働は決して悪いことではないのだが、生きるために本来心からやりたいと思っているわけではない活動をしている時間に対しての自らへの正当化であり納得のさせ方として、「これは自分が望んだ活動であり、お金のためだけにやっているものではない」と思うことによって望むべく賃金が得られていないことや自分が提供する労働力と自分が思う価値との乖離を自ら埋めようとしている構造がある
4.対価以上のサービスを受けたい消費者
本来時間給を得る以上の労力を割く必要がない労働者が、他の労働者に対してそれを求めることによって同じ時間給の中で提供する労働力を増加させることにより、労働力の価値を相対的に下げている。
この多くの「労働者である消費者」が他の労働者に対して本来提供すべき対価を超えるサービス(=労働力)の提供を迫る構造がお互いに自らの労働力の価値を下げ続けるという悲劇的な構造を生んでいる。
総論
以上を見てくると、労働者に対して自らの労働を仕事だと倒錯させる仕組みや構造があまりにも多いことに驚く。
「はたらく」ことに対して関わるほとんどのプレーヤーが労働者に対して、彼らの「労働」を「仕事」だと思わせることに非常に強い関心があり、労働者本人が自らの労働と仕事を余程強く意識することがなければ容易にこの倒錯に取り込まれてしまうのである。
そしてそれらの構造は以下の2つに大別することができる。
1.事業者(経営者・投資家)から労働者へのアプローチ
事業者からの労働者へのアプローチによって生じている構造と理由は明白である。
労働者は自らの労働力と賃金を交換するという存在であるから、労働者としてはなるべく高く自らの労働力を賃金と交換したいわけだし、事業者としてはなるべく安くそれを買いたい。
時給や月給など、時間単位で支給される賃金に対してはできるだけ労力を使わずに(これが労働者から見た生産性となるはずだ)同じ賃金を得ることを考えるという行動が最も経済的であるから、必要以上に労働力を提供することは自らの労働力という商品の価値を相対的に下げてしまう。
事業者としては、賃金を上げることなく進んで労働力を提供する方法を考えなくてはならないので、労働者が「自ら選んだ仕事なのだから」「もっと頑張れる」という状態を作る。
この方法の一つとしてこれがあなたの「仕事」です。というメッセージと共に、「仕事はこんなに素晴らしい」「一生懸命働いていることは格好いい」という社会環境を作った。
その一つの結実がサービス残業の常態化、明らかに人が足りない中でのワンオペなど過酷な環境での労働である。
労働者であるのに自らの労働力を無料で提供することなどあってはいけない。労働力の安売りは全ての労働者にとっての悲劇を生むのであって、その本人が辛いとか大変といった話ではない。
労働力という商品の価値の危機である。
このように、事業者は労働者に対して、その活動が労働であることから目を背けさせる。
労働であることを意識すると労働力と賃金の交換であることが真っ当に意識され、労働力と賃金の交換比率に対する交渉となってしまうからである。
ここで、労働者が錯誤していることで賃金ではない部分での交渉が可能となり、「仕事」だからこそ賃金が低くても働くという構造を作ることに成功した。
だからこそ、労働者は自らを労働者だと認識したうえで、仕事と労働を正しく区別して活動を評価すべきなのである。
2.労働者同士による相互監視
1.で記載した構造はある意味当然起きることであって、ほとんど自明で当たり前であるといえる。(それすらも意識されない実態もあるが)
本稿で追加で取り上げなくてはならないがこの2つ目の観点である。
つまり、労働者同士による相互監視・相互攻撃の仕組みによって本来同じように労働力を商品として提供している労働者同士であるのに、お互いがその商品価値を高めないどころかむしろ下げてしまう行動をとっているところにある。
本来労働である活動を「仕事」だと倒錯させることであるポジションにいる労働者が自らの労働をしやすくなる。
この構造は分割統治のような形で行われており、労働者自身が「自らの管理下にある部下から効率的に労働力を提供させること」を労働として担わせることによって労働者自身による労働を仕事と倒錯させる構造を構築している。
効率的に労働力を提供させる仕組み自体は事業者と労働者の関係性に用いられている手法とさほど変わりはない。
「これが君の仕事だ」「君が自分自身で選んだ」「自分を成長させる方法」などによって労働者が自ら進んで労働力を最大限提供できるように仕向けていく。
この点、労働や仕事を通じて労働者自身が楽しみを見つけたり、自己成長するということ自体を否定しているわけでは全くない。そういった面も実際に大いにあるがそれが「仕事」なのか「労働」なのかを理解しないまま活動していることが問題なのだ。
つまり、本来労働者同士であるから労働力という商品の価値を共に高めることが最も合理的な活動であるはずが、仮想的な競争関係ができてしまっていることによって一方の労働力の価値を低くしてしまっている。
その構造が階層になっていることにより、管理者自身もその上位の管理者によって労働力の提供を促されていくことが続いていく。
この結果、階層を登っていくことで立場が変化して見えるが全て労働者であり、お互いがお互いの労働力の価値を下げ続けてしまうという構造が生まれているのである。
意図的な倒錯の主体_まとめ
ここまで見てきたように、「労働」を「仕事」と倒錯させる主体は「はたらく」に関わるほとんど全てのプレーヤーであり、それらが仕組みや構造の中だったり作為を以て労働者から効率的に安価に労働力を提供させようとしている。
何度も記載するが、「労働」は悪いことでは全くないし、仕事や労働の中で自己成長などの側面があることは全く否定しない。
ただ、この倒錯によって労働者が本来論点にすべき労働力と賃金の交換という観点に正しく目が向いていないため、労働力という商品の価値を本来もっと高めることができる交渉のテーブルに正しく着けていないのである。
自らの活動が労働であること、賃金と交換しているのは労働力であることを正しく認識することが労働者の自らの価値を高めるのである。