見出し画像

「鎮座系女子」爆誕の謎

こんにちは。りなおです。

夏休みが終わり、急に殺人的に忙しくなり毎日くたくたです。
やっと、書こうという気持ちになったのでこうして画面に向っています。

さて、夏休み明け初日から7限まで授業。初日だから先生たちもアイドリング的な授業をするのかと思いきや、どの教科も初日からエンジン全開で、しびれます。もちろん私も初日から何事もなかったように通常運転。

夏休み明けの変化

そんな夏休み明けの授業で気が付いたことが1つ。
あれ、みんな静かすぎないか?授業って、ライブだから、教壇に立つ側としては教師の問いかけに少なからずリアクションしてほしい。そこからまた新しい気づきが生まれたり、関係性が深まったりするのでは?授業をしていても、リアクションが無さ過ぎてつまらないのです。話そうと思っていたことも、最低限でやめてしうこともあります。教師だって人間だから。昨年、1年生の時のみんなはもっといい意味でわちゃわちゃしていたぞ。これは、生徒の成長の一過程なのか?それでも教科の特性上、授業で私は負けずに生徒に問いかけますが、ほぼ一人芝居状態で正直心がやられます。

「鎮座系女子」爆誕!

しかし、個々ではよく話すのですよ。休み時間や掃除の時間などには、生徒はわざわざ話しかけに来て雑談に花を咲かせるのです。でも、40人のクラスになると途端にリアクション無になります。彼らは授業の話だけはちゃんと聞いてはいますが、リアクションもせず、笑いもせず、だたそこに座っているだけ。まるで、教壇の上にいる私を、映像でも眺めているかのように。それを私たち国語の先生界隈では「鎮座系」と呼んでいます。性別で分けるのはジェンダーの観点で時代遅れかもしれませんが、特に女子が多い。そう、「鎮座系女子」爆誕です。

「鎮座系女子」爆誕の謎

この現象は生徒の成長の一過程なのか?考えられる外的要因として、「新型コロナ」が絡んでいることを否定できません。私は、あるいは生徒たちは、入学からすでにマスク生活でお互い素顔を見ることがほとんどありません。マスクの下で、もしかしたらニヤッと笑うなどリアクションを取っているのをマスクが隠しているだけなのかもしれません。逆に、自分では表情豊かに話しているつもりでも、顔の半分がマスクの私を生徒は表情が乏しいと思っているのかもしれません。怒っているとも笑っているともわからない人間に生徒は心を開くはずありません。それでも、私は生徒に問いかけたい。生の授業ができる幸せを分かち合いたい。視的効果に優れているが一方通行の動画に慣れている世代の生徒に、あえて生徒と教師の両方で作る授業を続けたい。

さて、夏休み明け、現代文は「こころ」古典は「史記」に入っています。どちらも私の好きな文章。またnoteに書こうと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?