どんな経験も、その人にしかできない大切なもの
私は現在、ソーシャルワーカーとして、障害のある方と接する仕事をしている。
その中で、学生時代不登校だった経験を持つ方、ひきこもりだった経験を持つ方と関わることもしばしばある。
そうした人に対し、支援者が
「彼、彼女たちは経験不足だから(未熟である)」
「社会経験がないから、もっといろいろな経験をするべき」
といった見解を述べることがある。
私はそれが強烈に違和感だった。
確かに、人はいろいろな経験をすることで成長できると思う。
しかし、その支援者たちの指す「いろいろな経験」とはなんなのだろう。
確かに、仲間と青春して、夜中まで語り明かしたとか、青春18切符で行けるところまで行こうぜと無計画に旅立ったとか、そんな経験は、なかったかもしれない。
社会人として、労働の対価を得たり、怒られたり、失敗したり、逆に認められて褒められたりすることも、なかったかも知れない。
でも、その支援者たちは逆に、「不登校やひきこもりという経験」をしたことがあるのか?
外に出られず、誰かと関わることもできず家にいる人が、
何を思い、何を考えるのか、分かるのか?
と疑問に思う。
私は高校時代、不登校だった。
その後大学時代は少しずつ回復しながらも、やっぱり休学して卒業は遅れたし、ニートだった時期もあった。
その後無事社会人になって、現在まで一応15年くらい働き続けている。
高校生の頃は、同級生が学校帰りにプリクラとか撮ったり、恋愛したり、
学業やクラブ活動に打ち込んだり、そんな話がすごくうらやましかった。
大学時代や、社会人になってからは少しずつ外にも出られるようになって、友達とドライブしたり、旅行したり、推しを追いかけたり、何日連続食堂のカレー食べ続けられるかチャレンジとかアホな事をしてみたり、楽しい思い出も少なからず作れた。
でも、どちらの経験がより人間を豊かにしたとか、そんな優劣はなかったように思う。
今の自分の考えや価値観に大きく影響しているのは不登校時代の経験だったと思う。
それがなければ、今の仕事にも就いていないだろうし、関心の領域も全く違っていただろう。
絶望やどん底の淵にあったからこそ、そんな中で支えてくれた人のありがたみに気づけたこともある。
不登校だから、ひきこもりだから
「経験がない」
のではなく、
「家にずっといる経験」
をしている。
問題なく平穏に暮らしている人にはきっと分からない辛い経験をして、
様々なことを考え、もがいているのではないかと思う。
その「経験」は尊重されるべきであり、「経験不足である」と、上から見下ろすものではないように思う。
もちろん、いろいろな人と話したり、さまざまな場所に行って見分を広めたり、何かしらの役割を与えられ、それを果たしぬくことが、より視野を広げていくであろうことは、言うまでもないことだと思う。
しかし、不登校だったり、ひきこもりだったという経験をしてきたことは、
他の誰にも歩めない貴重な経験を積んでいるのだと、私は思う。
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