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短編小説 『豊穣の土地』

いつか気付いたことがあります。「らしさ」の苗を植える側になったことを。大人になったなあ、と思ったけど、少し悲しい気になりました。

もうだめかもしれない―――。
私は大人になって度々思うことがありました。この物語は、その感情を大人への通過儀礼的に書こうと思って作りました。



 もうだめかもしれない―――。

 そう思うことが過去に何度あっただろう。

 よくよく思い返せば、全ては大人になってからのことだった。幼少期、そのようなことが思い浮かばなかった私は、それなりに恵まれた子供だったのだろうか。

 平穏が約束された田舎の箱庭では、私に思い悩む種のようなものがあったとしても、箱庭の管理者がその若芽の出始めた未熟な土壌をドでかいトラクターのローターで無茶苦茶に潰して耕して仕舞っていたものだから、陽に焼けた農婦が植えていった[子供らしさ]や[女らしさ]の苗の間を初潮を迎えたばかりのまだやわい(柔らかい)素足で駆るしかなかった。

 きっと股は赤かったろう。

 駆けた後には血が残り、農婦は善良な顔をして血溜まりに[らしさ]の苗を植えていく。田舎の箱庭に青々茂る豊穣は、そうして平穏を保つのだ。

 これは、正しいことだったのか?

 私には分からない。

 私は田舎が嫌いだった。農婦が植えた[らしさ]の苗を片っ端から踏んで回ったこともあった。自分の若芽を、小さな手で必死に育てたこともあった。その度に箱庭の管理者たちがやってきて、私の手を引いて、畑の畦(あぜ)に座らせるのだ。


 「いい子だから。」


 日が高く登っている。雲一つない晴れた空に山の稜線がはっきり見える。私の右の手には、握られた手の形に赤く跡がついている。足元に咲く野の花が羨ましく思えた。遠くのトラクターがディーゼルエンジンを鳴らしてやってくるのが見える。

 やめてほしい。私はそう思った。私は両手を掴まれていることに気が付いた。血が止まり、冷たくなった私の指。


 「いい子だから。」


 暴れる私は掴まれた両手を上げさせられ、仰向けに倒された。

 やめて。私の畑を荒らさないで。トラクターが、私の苗を。せっかく育てた私の若芽を。


 「大人しくしなさい。」


 畦(あぜ)に組み敷かれたまま畑を見ると、トラクターがディーゼル音を鳴らして畝(うね)に車輪を掛けていた。土の地面に深い轍(わだち)ができるのは若く旺盛な土壌の証だといつか誰かが言っていたのを聞いた。

 私は足をバタつかせて抵抗した。やめて。お願い。お願いします。私の畑を耕さないで。入ってこないで。

 トラクターの唸りが耳元で囁かれる。空気の震えが私の腿を伝って服の中に潜り込む。ざらついた風はワンピースの裾を捲し上げ、足を開くことを強要する。畦に咲く野の花はそっぽを向く。

 怖い。助けて。ごめんなさい。もうしません。悪い子になりません。いい子でいるから。お願いします。それだけは。

 私の畑に跨がるトラクター。畑を耕すローターは、陽に濡れ黒く、ギラつく光が恐ろしい。覆いかぶさる影の重さが諦めを誘う。抵抗しても辛さは変わらない、と。

 もうだめかもしれない―――。

 力を抜いた私の畑にゆっくりとローターが下ろされて、耕運の刃が、私の畑に、私の土壌に、深々と突き刺さっていった。



 気が付けば、トラクターは遠くの方で知らない畑を耕していた。

 私は組み敷かれた時に押さえられていた手首を見た。私よりずっと大きな手。たくさん暴れたんだろう。くっきり跡がついている。

 白いワンピースは千切れた野の花とドロで汚された。ボタンもいくつかなくなった。肩口は。ズレた下着が食い込み赤い。私は立ち上がった。痛さから、腿を伝う血には気付かない。気付きたくもなかった。私の畑は耕されたのだ、と。

 大切に育てた私の若芽はズタズタに切り刻まれて、やわい土に鋤き込まれた。農婦は善良な顔をしてやってきて、等間隔に苗を植えていった。

 きっと、私の若芽も私の血も、ここで豊穣の土地の糧となったのだ。


 大人とは、こうしてなっていく。




[おわり]

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