デリダ『声と現象』でのフッサール『論研』への「誤解」

『声と現象』(ちくま学芸文庫)では、フッサール『論研』の第1研究第11節から次の箇所が引用されている。
「たまたま「可能性」や「真理」が欠けている場合には、言表の志向作用は、もちろん「象徴=記号的に」しか遂行されない。それは直観の中から、また直観を基盤として行使されるはずのカテゴリー的諸機能の中から、その認識価値を構成する充実を汲み取ることができない。その場合、その志向作用には、よく言われるように、「真の」、「本当の」Bedeutung〔意-味〕が欠けているのである」(デリダ『声と現象』、ちくま学芸文庫、219頁。あるいはフッサール『論研 2』、立松らの訳、みすず書房、55頁)
フッサール『論研』から上記箇所を引用する前後で、デリダは、上記箇所に以下のようにコメントしている。
「エイドス〔形相〕は、根底からテロス〔目的〕によって規定されている。「象徴=記号」は、つねに「真理」に向かって合図しており、「真理」の欠如として構成されるのである」(同上)
「別の言い方をすれば、真の、本当の意味〔言-おうとすること、vouloir-dire、ヴロワール-ディール〕」とは、〈真実を-言おうとすること〉なのである。こうして微妙に位置をずらすことは、テロス〔目的〕のなかにエイドス〔形相〕を、知の中に言語を取り戻すことなのである。(中略)「円は四角である」と言うことによって、たしかに語ることができるが、円は四角くないと言うことによって、的確に語るのである」(同上)

しかしフッサールは『論研 2』の当該箇所から2、3文ほど後で、このように書いている。
「しかしすべての言表は、たとえそれが認識機能のうちにあろうとなかろうと(すなわち言表がその志向を、それに対応する直観およびその直観を形成する範疇的作用のなかで充実しようがすまいが、そしとそもそも充実しえようがしまいが)、思念を有し、しかもこの思念のなかで、言表の統一的なスペチェス的性格として、意味が構成されるということは、確かである」(上掲書、55頁)
フッサールはわずか数行のあいだに2つのまったく異なる主張をしているのだろうか。

一方でフッサールは、
「それは直観の中から、また直観を基盤として行使されるはずのカテゴリー的諸機能の中から、
その認識価値を構成する充実を汲み取ることができない。
その場合、その志向作用には、よく言われるように、「真の」、「本当の」Bedeutung〔意-味〕が欠けているのである」
と言う。これは、直観に立脚した充実が成り立たない場合は志向作用には「真の」「本来的な(eigentlich)」意味が欠けている、とまとめることができる。デリダによればこれがフッサールの主張だ。そしてデリダは、「木製の金塊」のような「反意味」と呼ばれる表現がフッサールによって「本当の」意味を示さないものとして劣位に置かれていると言い、そのさいフッサールは「真実を-言おうとすること」という主意主義的な構えをあらかじめとっていると言う。
他方でフッサールは、直観のなかで充実が成り立たなくても、成り立ちえなくても、意味が構成されると言う。上記とはまったく違うことを言っている。反意味もやはり意味だというわけだから。

デリダが引用した箇所は、フッサールが自らの批判の対象として書いている考えだ。
「真理」「可能性」「真の」「本来的な」といった鍵括弧つきの語句は、まさに引用句としてフッサール『論研』では書かれている(原文では二重山括弧)。つまり、「よく言われるような」考えをフッサールはここで書いており、この考えを書いた直後の文でフッサールは、「後にわれわれは、志向する意味と、充実する意味とのあいだの、この区別をより精確に究明するだろう」と述べている。『論研』からの上記の二つの引用のうち、後者がフッサールの積極的な言明である。意味に関して「よく言われるような」話とは違う話のほうが。

すぐあとにフッサールの本来の主張が書かれているのに、デリダはこの箇所を『声と現象』では引用していない。ここでの詳細なように見えるデリダの引用は、レトリカルな引用にすぎない。もはや「誤読」ではなくデマの類いだと思う。
和訳者は訳者後書きでデリダの功績を讃えているが、私ですら気づけたデリダの作為に彼は気づいていなかったのか、気づいていながら売り上げのために持ち上げていたのか。

私ですら、解説書やネット上の論文やYouTubeでのくだらない解説動画やネット記事やなんやを見ずに独力で本に向かい、面白そうなところを見つけられるのに(たとえ誰かがすでに言及していたと後からわかろうとも)、なぜ読書を通して著者を理解しようとしないのか。仕事しながらで、たいした数の本を読んでいない私が、数多の解説書を「読んだ」だろう人が言及していない面白味を古典から引きだせるのだから、アープラに来るような人たちなら(ましてや学生なら)もっと出来るだろうに。怒悲こもごも。どひーっつってな。

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