ハイデガー『存在と時間』4頁目つづきのき


18行目 jederから
dgl.「der gleichenの略。『そのようなもの、こと』」
二重山括弧(≫≪)がここではっきりと引用符だということは事前に知らなくてもここでわかる。
この箇所ではistとbinが斜体になっており、強調されていることがわかる。
文法に難しいところはない。「各人は理解している、空は青で在る、私は楽しく在る、そのようなことを」。そこらの中学生の英語レベルのドイツ語理解でいける。

19行目 Alleinから。
allein「しかし、ただ~だけ、独りの」
durchschnittlich「平均の、並みの、ふつうは、平均して」
demonstrieren「デモに参加する」「実物で説明する、はっきり示す」
「しかしこうした大雑把なわかりやすさはただ(存在に関する)わかりにくさを示しているに過ぎない」()内は五番地による。
durchschneidenの過去分詞がdurchschnittであり、動詞の意味は「両断する、横断する」。schneidenが「切る」。だから「おおまかな」(細谷)となる。動詞の理解にもとづいた良い和訳だと思う。私の辞書には和訳例として含まれてなかったが、ほかの辞書にはあるんだろうか。

20行目 Sieから
das Verhalten「振る舞い、態度、行動」
das Raetsel「謎、なぞなぞ、クイズ、不可解なこと」
「このわかりにくさはつぎのことを明らかにしている、そのつどのふるまいのなかに、そして存在者としての存在者に関わるそのつどの存在(Sein)のなかにア・プリオリに謎が横たわっていることを」

まず文頭のSieだが、動詞がmachenの三人称単数のmachtであることが、女性名詞の三人称単数の代名詞であると言える。したがって前文のUnverstaendlichkeitを指すものと私は判断した。細谷は意訳してか「このことは」としているが(31頁)。
つぎに、振る舞いはVerhaltenの和訳だが、これは4頁16行目に登場している。「in jedem Verhalten zu Seiendem」という形で。
だから「存在者としての存在者に関わるふるまい」としてもよいような気もするが、文法的に判断つかない。ただこのVerhaltenは「存在者に関わる」ものだということは理解しておくべきだろう。
そしてSeinだが、存在者としての存在者に関わる存在、というのはわかりにくい。
Er als mein Vaterで「私の父としての彼は」となる。この場合、私の父である〇〇には色々な特徴があるが、そのなかでも、父であるというところに焦点を当てている。「10歳の人間として忠告するが、ヤクルトは買わないほうがいい」というのは、なぜこの忠告者が自身の年齢や種族に焦点を当ててその質問をしたのかがよくわからず、意味はわかるが奇妙である。
存在者としての存在者に、関わる存在。存在者としての、存在者に関わる存在。さしあたりこの二つの解釈がある。後者は、存在は一つの存在者であり、また、この存在者としての存在は存在者に関わっている、ということだ。前者は、存在者というものがまさに存在者であるということに焦点を当て、そういう存在者に関わる存在について話している、ということだ。どちらがより相応しいか。
この箇所では「空は青で在る、青く在る」とかの「で在る」や「が在る」が例として挙げられていた。そこから存在(Sein)には謎が在ると言われている。存在(Sein)はだから、ここでは「で在る」や「が在る」のことだ。それはたしかに存在者としての空や私に関わっている。そうなると、「で在る」や「が在る」と述べられる者としての存在者が存在している、そういうものに存在(Sein)はまさに関わっている、と言える。
このあたりを汲むならさしあたり、「で在る・が在ると述べられる者としての存在者」となる。このときの「存在者」は空や大地や木や概念や接続詞やなんやかんや、ということになるだろう。
「存在者としての存在者」が不可解なのは、「空としての空」「木としての木」が不可解であるように、「~としての…」は、その前後が異なるものであるはずだという見通しが先行しているからだ。ここの「としての」も大差ないとするなら、「としての」の前後のそれぞれの「存在者」のニュアンスが違うのでは、というように考えてよいだろう。その考えの検討として上述の内容は通用するだろう。
意訳するなら、「存在する者としての様々な存在者たちに関わっている、で在る・が在るのなかにア・プリオリに謎が~」とでもなるか。つまり「存在者としての存在者に、関わる存在」という選択肢を私はここで採用していることになる。

そして「ア・プリオリ」だが、これが「先天的に」ではない、ということは知られているとして、なぜ以上のことから「ア・プリオリに」、ということになるのか。
様々な存在者に関わる様々な仕方が在るわけだが、このように「仕方が在る」などと、存在者に関する記述において「で在る・が在る」は避けられず、また、記述や言明や行為においても、貯金が在るとかトイレットペパーがないなど、経験、判断においても、「で在る・が在る」ということから避けられない。存在者が存在することや存在しないこと関わって生きている。生きていることと存在了解とは関わっており、しかもその関わりは、「なんとはなしに」存在についてわかってしまっているほど、密接である。生きていることと存在了解は不可分であり、しかしこの存在に関しては、謎がある。なんとはなしに、おおざっぱに、在るとか無いとか分けている。わからないからこそおおざっぱに分けている、というように。生(Leben)と密接に関わっている存在了解に謎が横たわっている。存在者に関して私は色々と体験する(erlebt)が、その体験(Erlebnis)と密接な存在了解に、存在に、謎が横たわっている。ここでのア・プリオリとはだから、生というものに形式的に関わる、という点でア・プリオリ(体験・経験よりも先んじている)と言える――このような感じでよいだろう。

22行目 Dassから
zugleich「同時に、おまけに、そのうえ」
まずこのDassが主語であり、動詞はbeweistだろう。
gehuellt istの主語はder Sinnだろう。
「私たちがつねにすでに~そして存在の意味が~ということは、示している、~を」という形である。
beweist die grundsaetzliche Notwendigkeit, die Frage nach dem Sinn von ≫Sein≪ zu wiederholen
この箇所だが、「原理的な必然性を示している、存在の意味へ向かう問いを反復するべき」
左から和訳するとこうなるだろう。内容から判断して「存在の意味への問いを反復されなければならないという原理的な必然性を示している」となるだろう。die Frage以降はdie ~ Notwendigkeitの説明であるはずだ。
しかしそのわりに、関係代名詞が無い。die Frageのdieが関係代名詞ならFrageが無冠詞になっておかしい。Dass ~ istのistはgehuelltにかかっており受動の意味をなしているし、もしそのように捉えるなら今度はbeweistが浮く。
ということで、ここではNotwendigkeitなど、知っているつもりになっている言葉を調べることに活路を求めるべきだろう。そうするとNotwendigkeit, ~ zu 不定詞の形で「~を不定詞する必要はない」といった用例が確認できる。これで解決。

ぶっちゃけNotwendigkeitのこの使用例は珍しくたまたま覚えていたが、哲学書を読むということの一例を示したいがためにとぼけてみた。「こうである」ではなく、「しかじかであるというように読むとうまうまがたちゆかなくなるので、こうである」という形を示したかったわけだ。
学問(Wissenschaft)はもちろん知(Wissen)と、知っている(wissen)と関わっているわけだが、「青森西高の山田パイセンはハイデガーがニーチェをかなり意識してたって言ってたよ」みたいな噂を知っていることは、ハイデガーについて知識を有しているということにはならない。確実に言えるのは、私が私の直観(‡直感)に従って正当に言えるのは、こいつが山田パイセンどうこう言っていた、ということである。こういうのは断片的な情報にすぎない。情報というのは断片的でしかないかもだが。
知っている、できるということにも水準が在る。卵を袋へ縦に入れようが、「卵を袋へ入れる」ということは「できて」いる。しかし袋詰めというのは、私が家へ無事に持ち帰り、袋から取り出し、冷蔵庫やら棚やらテーブルやらへその品を置くということをさしたり目的(end)としていると言ってよいだろう。その目的・終わりに照らして言えば、卵を縦にしたら割れる可能性が高まるためダメなわけだ。あのパックは下部がいちばん頑丈なんだから。となると上に重いものを乗せないほうがよいしry と、いわゆる「常識」水準のことを例に出したが、これを踏まえれば、たとえば冷凍食品はなるべく袋の中の同じ個所に集めるとか(バラバラだったらいったん邪魔なものを出してわきに置いて後で冷蔵庫に入れるとかになりうる)、すごく細かいことだがさらに袋詰めの水準を上げることができる。この調子でいけば「たかが」袋詰めという「作業」にすら、何項目ものチェックリスト作ることができ、またそのリストをランク分けして並べ替えることもできるだろう。「できる/できない」はおおざっぱすぎる。「和訳できる」もそうだ。
だから、和訳する際はノートにこういう過程を書いとくべきだし、ましてや間違いを消すなんてもってのほかだ。「それはしかじかだから無理」と言えるというのは大事なことだ。そういう時間を経たものを知識と言い、そういう知識がいわゆる「体系的な知識」へ繋がる。マインドマップとかいうような、或る項目と項目とが連関している空間的な図形のようなものを「体系的な知識」と思っている人がいるかもしれないが、あれは、或る項目(「まるまるはうまうまである」みたいな判断とか)の強度がわからないのがよくない。体系的な知識とは、ベルクソンとは違う意味で、時間の空間化したものであらねばならない。その時間が、思考の過程が、ああいう図形では消えてしまっている。

26行目die Berufungから
die Berufung「招聘」「使命感、天職」「(auf et4/j4)4を引き合いに出すこと」
der Umkreis「範囲、周辺」
gar「まったく」「それどころか、~さえ」
im Hinblick auf et4「4を考慮して、4に関して」
zweifelhaft「疑わしい、不確かな」
das Verfahren「やり方、態度」
anders「違ったふうに」「ほかにどこで、だれが、どんなふうに」
geheim「秘密の、ひそかな」
das Geschaeft「商店、商い、用事、職務」
sollen「」sollはichとer

長い。左から。
「自明性を引き合いに出すこと」「哲学者の根本概念の周辺で」「ましてや≫存在≪概念に関して」「疑わしい方法だ」、
「もし≫自明なもの≪」「そして」「それだけ」「≫一般的な理性の隠れた諸判断≪(カント)」、「分析の主題(≫哲学者たちの仕事≪)」「なるべき、とどまるべき」

前半は簡単だ。問題は後半。
~は疑わしい方法だ、もし~ならば、という感じになるんだろう。

「もし自明なものが、そしてほかにはそれだけが、つまり一般的な理性の隠れた諸判断(カント)だけが、分析の主題(哲学者たちの仕事)になりつづけるべきなのであれば」
こんなところか。
内容としてはまだ把握しやすい。
私たちの一般的な、通常の、卑近な(gemein)理解、存在に関する理解には、そして「で在る」や「が在る」には、謎があるとされたんだった。
そしてそのように謎があるような存在理解や存在について、自明なものだと見なし、それを引き合いに出すことは、謎があるんだから疑わしいやり方だ。まさにそのゲマインな判断が、「自明なもの」が、分析の主題となるべきならば。
ここでハイデガーはカントの考えを引用しており、かつ、その考えに肯定的な態度でそうしている、と言える。それはわかる。
ただ文がややこしい。
まずwenn節の動詞はsollという助動詞であり、動詞はwerden und bleibenだ。ほにゃらになりまたそうありつづけるべき、という感じだろう。
このsollは変化しているので対応する主語を調べるわけだが、まずichとer、そして「Soll das mir?」という使用例があったりするように、esやdasという中性の三人称単数もsollの主語になるとわかる。
辞書掲載の使用例も見てみるのは大事だ。
そうすると主語は、das ≫Selbstverstaendliche≪ und ~~(Kant)である。
自明なものが、そしてふにゃらら(byカント)だけが、ということ。
この箇所のanderesがどう効いているのかだが、そしてほかにはそれだけが、というように、自明なものかあるいはそれ以外にはそれだけが、というニュアンスなはずだ。wennと合わさって、さもなくば、的な感じ。

32行目 Die Erwaegungから
Erwaegung「検討、考量」
deutlich「明確な、わかりやすい」
fehlen「欠けている」「欠席している、来ていない」

ちょい長い。
「諸々の予断の検討をしてきたがそれにくわえて明らかになったのは」
「存在へつづく問いには答え(Antwort)が欠けているということだけでなく」
「その問い自体が暗く明るみを欠いているということである」
文法に難しいところはない。
そしてここで、数頁にわたって検討された、古代の哲学の存在論に根をもつ諸々の予断に関して一区切りついたんだなとわかる。

34行目Die Seinsfrageから
besagen「意味する、言い表す」besagt「前述の、上記の」
zureichend「十分な」
ausarbeiten「仕上げる」
「存在の問いを繰り返すことはそれゆえ意味する、先ずいちど問いを立てることを十分に仕上げるということを」

これまでの「古代の存在論に根を持つ諸々の予断」として、ハイデガーは「存在は普遍的な概念である」「存在概念は定義不可能である」「存在は自明な概念である」をとりあげた。そのなかで、その予断がもつ存在に関する理解に関して、「存在に関して十分に手がつけられていない」「その考えからはそうは言えない」「存在や存在了解にはアプリオリに謎が横たわっている」というように考えられた。歴史的に、論理学的に、日常的な語用のなかに、答えが欠けていることが示された。
しかしここでは諸々の予断が検討されてきたのみで、問いについては十分に検討されていない。「存在とはなにか」とアンケートのように問えばよいわけではない。それなら「定義不可能な概念である」というような回答だってさしあたり可能だ。だから問いを立てることの反復とは、すでに立てられている「存在とは何で在るか」という問いを繰り返すことではない。ましてや「自分の問い」というなんかセラピー効果でもあるのかなと思わせるぐらい人気の言い回しを言っているのでもない。存在の問いの反復とは、存在の問いを十分に仕上げることだ、とハイデガーは言っている。
ハイデガーは問いそのものを検討する。何かを問うとき、なんらかの見立てにもとづいて人は問う。問い自体が、問う者がなにをどのように考えているかの表明である。だから問いだけを聞いて、その問いの前提となる考えに言及し、それになにか言うこともできる。存在に相応しい問いを問おう、みたいな感じか。ここらへんはフッサールがしばしば言う「方法は対象に規定されている」みたいなんを彷彿とさせる。問いを問うという事態へまず焦点を当てるわけだ。


長い。


正気か?