『存在と時間』、2頁目

2頁
einleiten「開始する、導入する」。名詞で「前置き、入門、導入、序論」
・動詞の意味から、論文で書かれている位置から、「序論」という和訳は想定しうるが、この種の推測は便利である一方、ときにその語がそこに書かれていることの意味を見逃すということもあるかもしれない。

「存在の意味への問い」
・nachは[3格]をとっていることがdemが直後に来ていることからわかる。定冠詞の格変化のうちdemは3格にしかないのだから、中性か男性かわからなくてもそう判断がつく。つまり、Sinnは男性か中性だということ。こういうのは文中の関係代名詞の理解に役立つ。受験英語と一緒。

Notwendigkeit, Structure und Vorrang der Seinsfrage
「必然性、構造、優位、存在の問いの」
第一章の題名。左から順に訳した。
「存在の問いの必然性、構造、優位」となるわけだが、日本語の場合と同様、der Seinsfrageがそれぞれの名詞を修飾してる。日本語のいろんな表現が身に染んでいることが、外国語の表現の理解に役立つこともあるだろう。もっとも、普段どれだけ日常的表現や堅い文章の文法を意識しているかだが。

第一節「必然性、明確な反復の、存在へ向かう問いの」
・左から順に区切りをつけつつ和訳。これだけでも「存在へ向かう問いの明確な反復の必然性」という感じになることがわかる。
・Seinsfrageとdie Frage nach dem Sein、およびdie Frage nach dem Sinn von Seinという異なるが似てはいる表現がある。存在と存在の意味への問いは同じだろうか。異なるとしたら、それはハイデガーの論述にどのような影響を与えるのだろうか。

die genannte Frage
・genannteはnennenの過去分詞。nennenは呼ぶとか名づけるとか言及するとか。定冠詞がついているため、このFrageは序論や第一章の題名に含まれる「存在の(意味の)問い」のことである。
その問いが、Vergessenheitのなかに来ちゃっている、忘却のなかに来てあるという。
ハイデガーによれば当時は「形而上学」に再び「ja」を言うことが、肯定することが進歩として数え上げられているという。新カント派の人たちを意識しているいるんだろうか。だとするとのちにヘーゲルが挙げられているのも分からないではない。

・四行目。fuer enthoben
さて。前置詞の直後に過去分詞が来ている。よくわからないときは辞書を調べる。
するとhaeltからhaltenに至り、その用例に、四格を......だと見なす、というものがあるとわかり、そこで前置詞fuerが使われているとわかる。
となると、解放されたと見なしているわけだ。誰が? manが見なしている。何から何が解放されたとmanは見なしている?

・enthebenはsb(四格)をst(二格)から解放する、という動詞。この箇所ではder Anstrengung(en)がsomethingに当たるだろう。
Anstrengungは女性名詞。
努力とか労苦とかいう和訳例がある。名詞を調べて和訳例がしっくりこない場合は相応しい訳語を考えることが不可避だが、そのさいは動詞を調べるのもありだ。この場合、語尾から現在分詞(の複数形)だとわかる。英語で言うstruggleっぽいね。
で、複数形の定冠詞の二格はderなんだから、「労苦からsbを解放する」という話だろうとわかる。
では誰が解放されたのか。ここだとsichだろう。man自身が労苦から解放されてあるとmanは見なしているということだ。

man haelt sich fuer enthoben
人々は自分たちを見なしている、~~から解放されたと
enthoben der Anstrengungen
労苦から解放された
さて、enthebenはsb(二格)をとるわけだが、この文だとどれか。einerである。これは二格であらねばならず、そしてその語尾からして、複数形二格だろう。
↑sb4格を2格と入力ミスし、ミスした格を参照しつつ文を読んだという二重のミス。
「複数形で不定冠詞ってつくっけ? 例外? おかしくない?」というところから気づく。

4から5五行目
Dabei ist die angeruehrte Frage doch keine beliebige .
付け加えるとここで触れられた問いはしかし気ままなものではない。
・話の流れ。存在の問いは忘れられている、形而上学は再興しているのに。人々は存在をめぐる巨人の戦いに薪をくべる労苦から解放されていると思っている。
ここからのdabeiだが、これは直訳するとdaの近くで、その近くで、くらいの意味合いだ。

daは何を受けているのか。基本的には前文だろう。
前文では存在をめぐる巨人の戦いから人々は開放されたと見なしている、とあり、つぎにはプラトンやアリストテレスに言及されている。
となると、存在の問いは今日の人々の任意に片づくものではない、という話の流れだ。
そうするとdabeiは、とくに「存在をめぐる巨人の戦い」を意識して、それに話を接ぐための副詞であると見なすのが妥当だろう。後の内容も鑑み、dabeiを「付け加えると」とした。
細谷訳では、おそらくdochの逆説的なニュアンスのみを広い、dabeiがどのような意味合いかは和訳文から推し量こともできない。文中の語は必ず和訳文に含めなければならないという道理はないが、このdabeiはいかなるものであるのか、という話はしておいて損はない。

このeinerはdie Anstrengungenがどういうものかを説明する節の始まりだと見なす。
あとついでに、zu -end(en)は未来受動分詞だから、まだ焚きつけねばならない、みたいな感じになる。
このenthobenがとるはずのsomebody4格は、実はなくてよい、あるいは省略されているってことかな。形容詞的な用法だし。

5から7行目
sb4格 in Atem halten 4に息つく暇を与えない
freilich もちろん、ただし

von da an zu verstummen
daから静かになる。von heute anで「今日から」となったりする。
ここはそんなつまずくことはない。um zuが結果を表す用法としてのそれであり、「もっともそれ以降は静まりかえることになるけれども」、みたいな感じになるぐらいか。
接続詞のumは、um zu~で「~するために」となるパターンを授業の初期はよく目にするだろうが、今回の「(結果として)~となる」というのも、前者が目的で後者は結果というように、言うたら終わりと結びついているわけだ。
umという前置詞は「~の周りを、~を回って」というのが主な意味合いらしいが、それがzu(≒to)と結びついて、~するほうへまわるみたいな感じになるのかな。前置詞は難しいな。

8行目
Was die beiden gewonnen
この両者が獲得したもの。dieはbeidenにかかってるだろう。

9、10行目
このwasからwurdeまでが主語。
ピリオドまでが長い文のときはどれが主要なところか、それが挿入されている節なのか、判断することが重要になる。
最初からわかればdie Anstrengungはない。となると、どうアプローチするか。
最初からきっちり和訳するなんて諦めて、カンマで区切られているところごとを不格好でいいから和訳し、その箇所でどういうことが言われているのかをふんわりでも掴む。
場合によってはこれでだいたいの構造がわかるので、あとは辞書を調べて握力を高める。
この箇所の場合、8行目のwas die beiden gewonnen「この両者が獲得したもの」「この二人の成果」にとりかかったとき、wasが英語で言うwhatのように(tell me what you waiting for)、一つの句として位置づけられていることは知っているのだから、Und was~も同様であるのではいかという見通しを立てることもできるだろう。そうやってどんどん着眼の幅が広がっていけば、まだ和訳されていない文献に着手するときにも役立つだろう。

哲学などの場合、その語の選択に著者の狙いが含まれていることがしばしばある。『存在と時間』の場合なら、Entschlossenheit「決意性」はentschliessenに関わっているわけだが、このschliessenは「閉じる」「推論する」といったふうに和訳される。それに奪去の接頭辞であるentがついているため、「閉鎖解除性」とでもなるわけだ。
こちらの和訳は、ともすればロマン主義、なんだったらなんかこう熱い気持ちでうんたらかんたら的な捉えられ方をされやすい「決意」という語を排除できるとともに、「開かれ」のニュアンスを乗せることができる。ハイデガーはとても「環境」ってのを意識していたのに、ひどい話だと思うが(ユクスキュルは関係ない)。
『存在と時間』ではどっかで「推論」に関して批判的な言及があったし、ハイデガーの道具全体性をなんかシステムだかなんだかと同じに見る人らとはちがって、ハイデガーは明確に「それは関数化に抗う」と書いてるわけだから。システム的に捉えるなら各項が意識されていなければならない、表象されていなければならないけど、手元的に在ることの本領はそれが意識されずにあるということであり、それはつねにすでにそうであるのだから。そしてこれは手元的に在ることうんぬんから来ている話であって、「熱意」と同じう見なされるような「決意」とはまったく関係のない話である。「決意性」、案外、誤読の原因かもしれない。
というような感じで、語のニュアンスから理解を深めることが、何かをしかじかであると位置づける場を広げることが、その場に山を隆起させることが、地を谷へと開くことが、すなわち、その何かが相応しく位置づけられるような場を世界に拵えることが、ありうるかもしれない。
そういう意味でも、和訳すること、そのなかで辞書を読むことというのは大事でありうる。目当ての単語のまわりとかも含めてだ。

13行目
Nicht nur dasそれだけではない。

auf dem Boden der griechishen Ansaetze
ギリシア人による端緒を基にして
Bodenは大地とか。その上でってこと。
その、とは何かとなると、der~がそれに当たる。
この文も少し長めだが左から順に和訳していくといい。すると主語がein Dogmaだとわかる。
・das die Frage
関係代名詞の話をだしたが、ここはわかりやすい。
こういうときはとりあえずよく見かけるアレ、「その~とはすなわち」、である。
「そのドグマというのは、存在の意味に向けた問いが~」ぐらいでもいいと思うが、意訳に凝ると後々に原文との照らし合わせができない。
少なくともその意訳とともにこの単語は何格かなど、メモぐらいはしとくべき。
・nicht nur~は「~だけでなく」。ついさっき出た。
not onlyほにゃららbut alsoうんたら、というのと同じ形でよく出てくる。
nicht nurほにゃららsondern auchうんたら。「ほにゃららだけでなくうんたらもである」。
not A but B、nicht A sondern B「AではなくてBである」

16行目
ist der allgemeinste und leerste Begriff
もっとも普遍的で空虚な概念。

Man sagt
こっからmanがどういうことを言うかの話があるわけだが、それはどこまでか。
まず和訳していく。

als solcher
そのようなものとして、ぐらいか。solcherは代名詞。
もちろんsolcherは普遍的で空虚な概念というところを受けている。

erは当然der Begriffのこと。
たいてい「概念」というのは、個体が有する「表象」とか「イメージ」だとか、
いわば「心理的なもの」として見なされる。
この語をなんの警戒もなく用いること自体が、心理主義や機能主義へ繋がりやすい。
しかじかの「概念」ではなく、「概念」というものに距離をとる人がいれば、
その人はちょっと面白いかもしれない。
という感じで、一言一句(の使用)から、人はその人の<前提>の手がかりを得うるものだ。
それは<古典>を読むときと同じ。見慣れた一言一句が瑞々しく現れるということがあるものだ。

undefiniebare
形容詞の最後に-barがあると「~可能な」ぐらいの意味合いになる。
それにun-がついて「定義不可能な」。

20行目
ちょっと長い。左から順に。
damit ist das, was
was以降でdasの内容が説明されてるんだろうなとあたりをつけておく。
☆damitをどう和訳するかは、後の内容を見て判断。

隠れたるものとして、古代の哲学的思索を落ち着かなさのなかへ追いやり、そのなかに引きとめていたもの
↑これはwasからerhieltまでの箇所。dasの説明の箇所。

22行目
zu einer sonnenklaren Selbststaendlichkeit geworden
さてこのgewordenはどこと繋がっているのかと言えば、damit ist dasのistである。
das(すなわちwas~であるもの)は、ほにゃららになってしまった、という感じだ。
どうなってしまったのか。
一つの(einer)わかりきった、それ自体で理解できることに、である。

かつて存在の意味への問いは、
古代の(プラトンやアリストテレスといったギリシア人の)思索を引きつけてやまなかったが、
彼らの成果からドグマが形成され、そのドグマのため、いまや人々はこのように言うのである、すなわち~
ってな按配だ。んで、
「隠れているものとして」うんぬんは、もしmanが存在の問いを忘れていないならば、manが言わないことである。
manにとってもはや存在の問いは片づいている、手をつけるまでもないのだから。
だからals Verborgenes以降はハイデガーが述べていることである。
☆そうなるとdamit ist dasのdamitは、そのことによって、という結果を表す言葉である。
mitはとりあえず英語で言うwithであると見なせばよい。
with~で「~によって」「~を用いて」となることをわかっていれば、
daimitが「そのことによって」となるのもわりとすんなり覚えられるだろう。

23行目
so zwar, dass, wer darnach~
まずはいけるところから。
wer darnach auch noch fragt それにむけてまだなお問う人、或るひとがそれについてまだなお問う
こうなると、wer~fragtはdassの内容だろうと見当がつく。
einer~wird
bezichtigenはsb4にet2の罪をきせる。
隠れたるもの(存在の意味の問い)に向かってまだなお問う人は、方法の誤りという罪をきせられる。、
で、so zwar, dassについて。
dassはwer~wirdまでを受けている。では動詞は何か。
damit ist dasのistをこのdassも受けている。
bezichtigt wirdは問う人が罪を着せられるということだから、dassには関係ない。
i am a human and femaleみたく、istがwas~erhieltとdass~fragtとを主語にとっているのではないか。

25行目
・koennen die Vorurtile~eroertert werden
werden過去分詞で受動。それにkoennenがついて「論じられることができない」。
なにが論じられることはできないのか。諸々の予断(die Vorurtile)。
ずいぶんまわりくどいように思える書き方のように見えるかもしれないが、
こういう書き方は、主語に(この場合は諸々の予断に)そうすることができない事情があることを
より前面に出した表現だ、というぐらいに理解しておけばよいのではないか。
「我々は~を論ずるわけにはいかない」という仕方で、細谷は文中にない「われわれは」を入れている。
「できない」ではなく、「わけにはいかない」とすることで、
はじめにそこらを論ずるのを止むことは事情による、というニュアンスを出そうとしているんだろう。
ただし文法どおりなら、諸々の予断は~論じられることはできない、である。
・eines Fragens
ここで立ち止まるひともいるだろう。
第1節の名前にder Frage nach dem Seinなどとあるように、
Frageは女性名詞であり、定冠詞がついているが、
ここでは冠詞や語尾の変化から中性または男性の2格であることが察せられる。
これはfragenという不定詞をそのまま名詞化したFragenである。
こういうときはたしか中性だったかな。
そして不定冠詞である。
aやanと同様、不定冠詞は指定された、特定の何かではなく、
数あるもののうちの一つとかそういうニュアンスがある。
歴史のなかで重要とされる、存在の意味へ向かう問いという特定の問い(die Frage)ではない。
人々が存在や存在の意味について問うとき、その問うということ自体は、さしあたり特定のものではない。
そういう意味でのeiner Fragens、つまりein Fragen(問うこと)である。
そういう「問うこと」に定冠詞をつけるのはここでは不自然だ、とわかっていればオッケー。

正気か?