眼球ミイラと楽園

コンタクトを着けながら号泣すると、コンタクトが涙を吸ってどんどん太っていき、いつかすべての水を吸いきって眼球がカラカラになるんじゃないかという恐怖を抱くことになる。号泣している人間は、今がちゃんと辛いが、目が腫れちゃうなぁ、とか、コンタクトつけっぱで痛いなぁとかも考えるマルチタスクな存在だ。そして私は今、コンタクトで眼球がミイラになる可能性に怯えつつ、本当に死のうと考えている。

どうしようもなく死にたいくらい悩んだ時は、信頼できる人に相談したら?というアドバイスをよく聞く。その発信者は暗に、私はその信頼できる人にはいれないでね、と言っている気がして、自然とその相手を除外した該当者を頭の中で探している。

信頼、その2文字で思い当たるのは私にとっては家族だ。家族が信頼できる存在っていうのは、本当に恵まれていて、幸せなことだなぁと思う。しかし、そこでストップがかかる。信頼してるからこそ言えないことってないか? 自分がいちばん大切にして、心の奥にしまっている死に対する気持ちを、一番認めてほしい人に否定されたらもう生きていけない気がする。死にたいのに生きたさを引き合いに出すのは矛盾しているが、正直な気持ちだ。

上京して2年目になる。前職ではパワハラとセクハラで仕事に行けなくなり、ベッドから動けなくなった。そんな私を母が実家に連れ戻してくれた。1年間の無色透明な無職生活。自分の時計の針が1秒も進んでない中で、SNSだけで生存を確認できる友人たちは結婚したり昇進したり、着々と秒針を進めているように感じていた。しかし、人よりも緩慢だから止まって見えていたのであって、私の秒針もきちんと動いていた。徐々に体と心が動くようになり、アルバイトをする中で運良く転職に成功し、知り合いのいない東京で生活することになった。

ただ、環境が変わっただけで、変われたと錯覚していた内面にあまり大きい変化はなかったみたいだ。前職と同じように人間関係に悩み、リスク管理能力のなさのせいで小出しにでてくるミスに悩み、次はしなければいいだけなのに自分の一挙手一投足が怖くなる。人に迷惑をかけ続けるなら死にたいと思う。帰りの電車で泣く日が増えた。気づけば涙が出る。でも大都会の不干渉のおかげで、泣いてる人も泣いてない人もただの「乗客」であれるからいい。

この先も永遠に慣れることはないだろう満員電車から降りて、1年かけて見慣れた家路をたどる。今日は朝から大雨警報が出ていて、12時まで警報が続けば1日仕事が休みになるはずだったのに11:59で警報が解除された。ふぁっきゅー気象庁、と書いたら不敬罪だろうか? 雨に濡れた紫陽花が、花びらを散らさずに花の色をより濃くしていた。めしべが淡い水色で、花びらは鮮やかな青紫のグラデーションという色合いに心を動かされる。遠くにある自分の問題より、手を伸ばせば届く目の前の紫陽花の清潔さに縋りたくなる。

視線を上げれば完璧な満月が浮かんでいて、こんなときに月が綺麗ですねと言える相手が近くにいてほしい。社会の中の自分の存在が苦しいものになればなるほど、その状態を脱ぎ捨てたときに見える世界が強烈に美しく心を惹き付けてくるので、まだ生きていたいと思う。見逃している景色があるのだとしたら、今すぐにでもパンプスを長靴に履き変えて、アマゾンの奥地を探検したい。密林のむせ返りそうな熱気にこもる熱帯果実の甘い香りを肺いっぱいに吸い込み、とうとう到達した最深部で私はほの光る女神に出会う。褐色の肌に栗色の長い髪をたなびかせて、力強い眼差しと輪郭の濃い唇が印象的だ。女神は言う。

「いい?悲しみで盲目になると、美しいものを美しいと見ることができなくなるの。この奥には、そうして眼球をミイラ化させてしまった人達が眠っている。ミイラ化しかかった目を復活させるため、人々は美しいものがあるとされるこの場所に楽園を求めてやってくるの。でも、覚えておいてね、楽園というのは」
女神は豊かな唇の口角をふわりと上げた。

「あなたが美しいと決めたものの中に、宿るのよ」

目が覚める。コンタクトをつけっぱなしで寝たようで目がしぱしぱする。でも目はミイラ化していないようで安心する。スマホを見ると時刻は2:43だった。カーテンから漏れる月明かりが部屋に細く差し込んでいた。窓を開けて、息を呑む。月に照らされた紫陽花が、街路樹の隙間からこちらを見ていた。綺麗だと思った。綺麗だと思えた。楽園は確かにある。私が信じるものの中に。寝たら死にたさが和らぐかと思ったが気分は変わらない。それでも、目だけでなく感受性もカラカラに乾かしていたくはない。どうしようもなく死にたい夜にこそ、静かに語り掛けてくる美しさがある。ありふれていると投げ捨てない。自分がそうだと決めれば、この世はちゃんと素敵なもので溢れてるはずなのだ。


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