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撮れない時、の意味

数ヶ月、
言葉にすると一瞬だが、以前の更新から大分月日が経っておりました。
昨年の晩秋から壮絶なスランプに陥り、一度はカメラを置こうとさえ考えたわけです。
早いものでもう直ぐ初夏を迎える今日まで、時計は進んでしまいました。

この間はというと、仕事では相変わらず撮影をしておりました。が、普段はなかなかカメラを持って「さぁ、撮りにいくか」ということはほとんどなく過ごしておりました。
そんなところで、この半年とちょっとの間、持て余した時間を使い考えていたことを、備忘録的にまとめておこうかと思い、キーボードと向かい合った次第です。


1.撮らないことが平気になること

写真を普段からよく撮っている人は、カメラを持ち歩かないということは考えられないかもしれません。かくいう私もそうでした。もはや半身。持ち歩かないでいると、どうも収まりがつかないといいましょうか。落ち着かない気分になりますね。それは今でも変わらないです。

「あっ」と思った瞬間、向けるものはスマホしかない。となってしまうと、興が冷めてしまう。そんな気持ち、皆さまもあるかと思います。

自分自身、いざ撮らない(むしろ撮れない)となってからしばらくは、どうにも落ち着かない心と日々向かい合ってきました。
おそらくカメラを持っていても、何も撮れなかったでしょうに。

そんな日々が続くと、「あっ」と感じたものがあっても、カメラを向ける衝動が無くなっていくのがわかりました。
これは、単に撮影行為への興味が減退してしまったのか、それとも別の何かなのか。自問自答を繰り返したわけです。
そのうち、撮ることではなく“考えること”が増えてきました。
撮らないことが平気になった、というのは“考えることを始めた”から、とも言えるかもしれません。

2.考えて、それで

半年ほどで書棚には写真集が20冊ほど増えました。大御所の方々から、新進気鋭な若手作家まで。さまざまな種類です。建物、人物、日常、家族、命、生と死・・・さまざまなテーマが込められた作品たちをどっぷりと読み、感じ、そしてまた考える、そんな日々。
何を撮りたいのか、なぜ撮りたいのか、という多少愚直すぎるかもしれないこの問いに向かい合う中で、多くの作品に触れているこの時間は、何の雑念もなく、ただ写真と向き合える心地の良い時間でした。

多くの思考を巡らせても、全く答えの出なかった自分自身の奥底にある疑問に、この時間だけは触れなくて良い、それが救いだった気もしています。

この時間を過ごしたことが、自分自身の写真との向き合い方を少しずつ、変えていってくれたんだと思います。

3.ただ、撮る

写真について深く知れば知るほど、本気で撮れば撮るほど、底のない沼にはまるような感覚があります。中毒的、とも言えるかもしれません。
そしてある時、それは心身に対して害を成すほどになってしまうんだと、今回改めて身をもって体験しました。

たかが写真。そう仰る方もいると思います。
しかし、そうではない。
私のように取り立てて抜きん出たものがない人間からすると、これが唯一、社会や人と繋がっていられる糧だったんです。

少し、重くめんどくさい話になってきましたが、
詰まるところ、ただ写真を撮り、それが誰かを幸せにする、笑顔にする、役に立てる。それだけで十分なのかもしれません。

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