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壁と卵と村上春樹(ディアスポラ)

「壁と卵」という記事の最後の方に、ディアスポラ文学(元々ルーツを持つ土地から離れて暮らす人やその人たちの文化を表した文学)について少し言及した。

子ども時代から複数のマイノリティ性を背負って育った私がイギリスに渡り、明らかなマイノリティとして生きる中で、常に惹かれ、孤独の心の支えとなってくれたのは、いつもどこかに自分が望まざるに関わらず不条理な世界でもがく人たちを描く作品だった。

その中で、今でも思い返すたびに胸が締め付けられるような気になる本がある。村上春樹さんの「中国行きのスロウ・ボート」という短編で、それ自体が語り手が人生のその時々で遭う小さな物語から成っている。作家はもちろんディアスポラの人ではないのだが、出てくる登場人物は日本に住む中国の人だ。読んでいるうちにジャズ音楽が耳の底に低く響いてくるような文体はソニー・ロリンズの曲から借りた作品のタイトルとあいまって、みずみずしい鮮やかな世界を広げているのだが、そこに深い切なさと作者の中国人(華僑への)温度のある思いがヒリヒリと伝わってくる。私が特に好きなのは最初に出てくる、語り手が中華学校で模試を受けることになった時のエピソードだ。

「誇りを持て」

模試を受けに来た見ず知らずの日本人の子どもたちを前に言ってしまう脚が悪い中国華僑の教師。

この話はフィクションであり、作者がどうしてこのエピソードを入れたのか、その意図はストーリーからははっきりとわからない。

デラシネ、と言う言葉がある。根無し草と日本語では訳されているようだ。
特定の地に縛り付けられる訳でもなく、世界を翔ける生き方もある。特にアジアの華僑など、地域をゆうゆうとまたいであちこちでビジネスをしているような一族などの生活の中では国境の線が薄くぼやけていく。地域独特の土着文化の中ではなく、彼ら自身が動く文化圏となっている。

私自身、かつてはそのような生き方に憧れた。当時は、週に何度も国を移り、3ヶ月後にはどこにいるかわからない、アジア地域の広い大地に身をたゆたわせる、そのような自分の生活に充実を感じ、地に足を踏ん張る生き方にはない軽さに安堵していた。実際、20世紀初頭にグローバリゼーション化が賞賛された時には、普遍的になると見られていた人間の暮らし方だったと思う。

でも、実際ほとんどの移民の人はやはり地元に根付いて生きていくであろう。だが、ディアスポラ ー特に非白人の場合ー であることは、大体において、自己の存在をまずその地で証明することから始まり、現地に馴染もうとすればするほど、その特異性が際立ってしまう。事実として、物語の舞台の神戸では戦時中、多くの華僑の人がスパイと疑われて拷問に遭い、差別を受け、命を落としている。

誇りを持て、その言葉は、移民先の国で暮らす、根付こうとしても足元の根を刈り取られてばかりで流されそうに、潰されそうになるその人を唯一地に繋ぎ止めておく、碇(アンカー)のようなこどばだったのかもしれない。

村上春樹さんが最近になって書いた彼の父親と中国での兵隊経験のことなどを考えると複雑な思いも出てくるが、現在問題になっている日本に住む外国ルーツの人への差別などに心を痛めるたび、その物語の教師が、私の耳元で、言うように感じるのだ。

「誇りをもて」

人間として、より高尚な生き方をするよう、この時には悲しく醜い世界での辺境からの言葉。こういう言葉を胸の中にいくつか持っていることで、私は何とか生きることができている。


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