見出し画像

フェミニズムと自虐ネタ

フェミニズム的な主張が色々な場面で自然に受け止められるようになって、とても嬉しい。以前から数度、フェミニズム運動の波はあったというが、今回は著名な人たちだけでなく、かつては声を上げなかったようなジャンルの人たちも発言するようになり、裾野の広さを感じている。

が、その女性権利の拡張を訴える女性たちの一部で、年齢差別的なことを自虐的に話すことが平気に思われている節が感じられる。自分は「おばさん」だから、と開き直り的に話したり、もう年で本当ダメなんです〜、と自分ダメっぷりを紹介することで、場を盛り上げたり、話を面白くしているなぁと時々思えるのだ。

女性に対して年齢の話はタブーとの社会的な規範を自ら破ることで、いさぎよさや、あけっぴろげなかっこよさをアピールしているのかもしれないが、私は戸惑いを覚える。

日本では女性の作家や著名人に、自らを自虐的に見せる人が多い。どんなに有名な賞を取っていても、社会的認知度が高くても、である。だらしがない、料理ができない、体型が良くない、「おばさん的な」厚かましさを強調するなど、いわゆる女性の一般的な理想化像と正反対のところに自分を置いて、いかに自分がダメかと暴露をすることで、諧謔と親しみやすさの妙を感じさせる意図なのだろうが、これが私は全く馴染めず、ずっと不思議だった。女性が理想像を強く押し付けられる社会への憤懣が溜まった女性からのアンチテーゼかもしれないが、女性著名人が女性ファンに自分はいかにダメかと自虐をする、自分の価値を貶めているのはやっぱり奇異としか思えない。

女性は、若い頃のういういしさから曲折し、痛々しいオバタリアン(懐かしい!)に脱皮してしまうのだと、女性自身が認める、女性自身が自分に対する内なる差別が無意識に関わっているように感じてしまう。

これは何も作家などに限らず、一般的にもよく見られる光景なのではないかな?と思う。おばさんだから〜とある種の開放感に浸りながら話している人は多くないだろうか。でも、その時に胸の痛みを同時に感じているはずだ。

自虐ネタは誰も傷つけない、高度なユーモアだと言われているが、自分の属する属性のことを馬鹿にするのとはちょっと違う。自分だけではなくて、その属性を持つ人たちに対して失礼ではないか。

アメリカにジミー・O・ヤン(Jimmy O. Yang) という香港出身の中国系アメリカ人の人気スタンドアップ・コメディアンがいる。彼の話は一見すると、アジア人や中国人を自虐的に話しているのだが、実はアメリカ人の人種的な偏見やアメリカ的な価値観のおかしなところを逆につくので、そのやり込められ感が大変面白い。非アジア人の聴衆は、アジアのカルチャーを知るとともに、自分たちのカルチャーも笑われるに値するものだと気づくのだ。

「だって、おばさんだもの」と言う開き直りは、若い女性が、「だってできない〜」と周りに甘えるのと同じくらい、途方にくれる時がある。誰でも歳を取る。だから、それを言い訳や主張にはできないようにも感じる。むしろ、歳をとった人には何となく気遣おうよ、と周囲の人たちの心がけが現代においての歳の意味するところではないのか。「歳だからできない!」と言う年配者と、「まずは自分でやってみる」と言う老人、私は後者の困りごとを助けたくなるだろう。

日本では、年齢を常に意識させられる社会の風潮があるが、本当はそんなに重要なことでもないと私は思う。年齢は潔癖に隠すものでもないし、歳をとった事実を晒さなくても良いと思う。だって人間としての価値には変化がないから。個人個人の生きてきた積み重ねがあるだけだ。年齢で人、特に女性をカテゴライズし揶揄的に扱う風潮はこのフェミニズムブームをきっかけになくなって欲しい。

フェミニズムが本当に主張していることは、女性の権利だけではない。誰でもが尊厳を持って対等に生きられる社会を目指すものだと思っている。この私たちに強く内包されている内なる差別を乗り越えてこそ、日本でも真のジェンダー平等思考がより深く根付いていくと思う。私っておばさんだから〜と言い訳するフェミニスト、わしっておじさんだから〜と開き直る言うおじさんにはきっと腹が立つと思うよ。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?