平野啓一郎論ー分人主義、小林秀雄を超えてー

平野啓一郎論ー分人主義、小林秀雄を超えてー

拙稿、小林秀雄論ー序説、何故賢いのかー、において、芥川龍之介のあとを、文壇を引き継ぎ、客体として芥川龍之介を超えた、小林秀雄論を、依然書いた。以下に記して置く。

こう言った日本の文壇の状況は長く続いていて、なかなか小林秀雄を超える人物は現れなかった。ところが、である。最近の動向を見ていると、芥川賞の選考委員の中でも最重要人物として平野啓一郎が頭角を現しており、2023年には、『三島由紀夫論』で小林秀雄賞を取るなど、その勢いは増している。

この平野啓一郎が提唱している理念、概念、思想を統括した言葉に注目は日に日に増している、分人主義(ぶんじんしゅぎ)というものである。以下、ウィキペディアから引用。

『ドーン』の中で平野啓一郎が提示した用語。分人主義(ぶんじんしゅぎ)/dividualism(ディヴィジュアリズム)。 たった一つの人格indivisualを持つのではなく、対人関係ごとに異なる人格dividualを分けることができるという考え方のこと。

「個人」の中には、対人関係や、場所ごとに自然と生じる様々な自分がいるという考え方で、「本当の自分が、色々な仮面を使い分ける、『キャラ』を演じる」ということとは区別される。

「キャラ」と違い、演じ分けたり使い分けたりするひとつの主体があるという操作的operationalなものではなく、向かい合った相手との協同的cooperativeなもの。 (「分人(ディヴ)」は「キャラ」と違い、人がいなくても成立する。海や山などの外界からの影響で別の場所にいるときと違った自分が生まれてくる。それも「分人(ディヴ)」という。)

関わる人や物事があって初めて分化する、自分の中にある一面で、そのような分人が、中心もなくネットワークされているのが個人であるという考え方。

人は「演じている」わけでなくても、「キャラをあえて作っている」わけでも、その場や相手に応じた「自分」になってしまう。人間が多様である以上、コミュニケーションの過程では、当然、人格は相手ごとに分化せざるを得ない。その分人の集合が個人だという考え方。

ウィキペディアから引用

この様なものである。芥川の借り物としての小説、小林秀雄の見るものとしての様々なる意匠、その次を超えた、平野啓一郎の分人主義。これからは、平野啓一郎が、日本の文壇を担って行くのではないかと、思われるのだ。小説家としての芥川、そこに批評家としての小林秀雄がおり、その次に、小説家としての平野啓一郎の姿が見える。これは、日本の文壇における小説の復権ではないかと、思うようになった。

勿論、平野啓一郎の小説が、とても良いかどうかは、人それぞれの価値観によるものだし、自分はあまり、読んでいないのだが、昔、平野啓一郎の講演を聞きに行った過去があり、その時も分人主義について話していたが、この分人という言葉は、強烈に頭に残っていた。そして、何と言っても、芥川賞の選考委員の中心に居る、平野啓一郎、という状況だから、分人主義が、広まるのは当然のことだが、その派生だけでなく、分人主義というものの内実も含めて、何か大きな流れが来ているように思えてならない。

この様なサイトまで、開かれているので、是非、ご覧になって貰いたい。この分人主義の背景には、パソコンやスマホ、個人の社会的役割などが複雑する現代においてこそ、意味を成し得る新たな主義だと言えるであろう。現代社会の流れにおいて、ついて行けない様な自分にとっても、非常に新鮮で、生き抜く手助けをしてくれるような主義に思えてならない。

平野啓一郎論ー小林秀雄を超えてー、として述べてきたが、何度も言うように、芥川龍之介、小林秀雄、と来て、次に文壇を牽引するのは、平野啓一郎の役目だと、自分は今、直感的に思って居る。将来的に、平野啓一郎賞なども設立されるのではないかと、思って居る。

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