仮面を脱いだスター:トム・クルーズ

伝説のパイロットを35年ぶりに演じたトム・クルーズは、映画ファンからの熱狂的な支持を集めている。自らの身体を映画制作に注ぎ込む彼の姿勢の結晶としての『トップガン マーヴェリック』(2020)は、新型コロナウイルス感染拡大による営業停止を克服した劇場にとってこれ以上ないほど「映画館で映画を観る喜び」を体現する作品となった。映画ファンは、時代遅れの曲芸パイロットと生身のアクションを追求する俳優を同一視することを厭わない。「トム・クルーズこそ真の映画人だ」という言説も真新しくはなくなってきた。
しかし、そのようなトム・クルーズへの印象は、彼の過去出演作品には意外なほど当てはまらない。特に1990年代後半から2000年代にかけて彼が演じてきたキャラクターは、はっきり言って当代きってのスター俳優には似つかわしくないものばかりだ。『マグノリア』(1999)における男性向け自己啓発セミナーの主催者フランク、『アイズ・ワイド・シャット』(1999)における妻に対して不倫の疑心暗鬼に陥るエリート医師ビル。この二つのキャラクターは、どちらも登場した瞬間に纏っていたヒロイズムや男性性という名の「仮面」を、映画が進むにつれて剥ぎ取られていく。セミナーで「女性を手懐けろ!」と威勢よく叫ぶフランクは、インタビュアーから出自に関する質問をされると狼狽始め、終盤には自分を捨てた父に縋り付くように泣き崩れる。参加者が全員仮面を被ったまま秘密裏に行われる儀式的乱交パーティーに極秘に潜入したビルは、正体を見破られ仮面を脱げとパーティーの主催者に詰め寄られる。一種の地獄巡りとして乱交パーティーを潜り抜けたビルも、フランクと同じように最終的には妻の元に帰り彼女に抱きしめられる。ここで重要なのは、『マグノリア』も『アイズ・ワイド・シャット』もトム・クルーズという実際のスターのあり方を映画に取り入れている点だ。前者はサイエントロジーという新興宗教にのめり込んでいるトム・クルーズを戯画的に描いているとも言えるし、当時夫婦だったニコール・キッドマンとトム・クルーズをそのまま夫婦役でキャスティングした後者も言わずもがなである。つまり、この2作品は、トム・クルーズという俳優が持つパブリックイメージという仮面(それは、大スターという華やかな仮面であるが)の裏側を、疑似体験させる映画と言える。ポール・トーマス・アンダーソンやスタンリー・キューブリックという鬼才たちが、同時期にクルーズのオルターエゴをフィクションの中で追求していたことは、『トップガン マーヴェリック』で何の迷いもなくミッションに命をかける絶対的なヒーローとそれを演ずるトム・クルーズという俳優がシンクロしている現状との大きな隔たりがあると言える。
2000年代以降のトム・クルーズは、神経症的な危うささえも感じる主人公となっていく。フィリップ・K・ディックの原作を映画化した『マイノリティ・リポート』(2002)では犯罪予知システムによって将来的に殺人を犯すものとして追われる身となった主人公を演じ、『コラテラル』(2004)では序盤こそ腕利きの殺し屋として登場しながらも運命的な出会いを果たしたタクシー運転手に計略を見破られ憔悴の果てに破滅する。『宇宙戦争』(2005)では、家族の誰からも信頼されていない父親であり、宇宙人の地球侵略という混沌した状況において無力な一般市民として暴徒達に襲われる。どのキャラクターも、常に混乱や不安を抱えた人間であり、自分の見に降りかかった危機に激しく翻弄されている。ヒロイックな活躍とは無縁な人間達を演じるトム・クルーズは、スターとしての仮面に次々と穴を開けられていくのだ。無論、『ミッション・インポッシブル』シリーズ(2と3が2002年と2006年に公開)、『ラストサムライ』(2003)などではっきりとヒーローを演じることもあるのだが、『ラストサムライ』のネイサン・オールグレイ大尉は南北戦争での殺戮の傷に苛まれて日本に逃れてきた人物も言えるし、『ミッション・インポッシブル3』では悪役に小型爆弾を頭に仕掛けられるというほとんどパラノイア的な目に遭う。『ミッション・インポッシブル2』において頻発する「別の人間に扮装するための仮面」は、1990年代から2000年代におけるこの俳優のスター性と演じる役柄の乖離を象徴するようなギミックであるというのは流石に言い過ぎだろうか。しかし、湾岸戦争や911テロ、イラク戦闘などを通じて超大国的なアメリカの政治戦略が足元からぐらつき始めた時期に、ハリウッドのビッグバジェットアクション映画の主人公が、揺らぎ混乱するキャラクターを立て続けに演じていた事実は無視しがたい。
ジェリー・ブラッカイマーやジョエル・シルバーなどの大物プロデューサー達が1980年代から手がけてきた好戦的で大味なアクション映画を、盛大に皮肉った『トロピック・サンダー 史上最低の作戦』(2008)は、おそらくトム・クルーズの転機となったと言えるだろう。(この年は、『ダークナイト』と『アイアンマン』が公開されており、2010年代以降の映画産業自体の転換期となっていることも重要である。)彼が、過剰な特殊メイクという仮面と共に演じるのは、まさしく罵詈雑言を撒き散らして人権や国家の主権を無視した筋肉アクション映画を制作する大物プロデューサーのグロスマンだ。長年ハリウッドの第一線で活躍してきながらも、時代の趨勢と共に作品の中に混乱を隠せなくなっていたスターは、今まで関わってきたハリウッド製のエンタメ作品の内幕をグロテスクなまでに暴露してみせたのだ。つまり彼は美しい仮面を捨て代わりにとてつもなく醜い仮面を被り「吹っ切れた」のである。
2010年代以降、トム・クルーズは『ミッション・インポッシブル ゴーストプロトコル』(2011)で、遂にスタントなしの生身アクションという魔法を手に入れ、あっという間に完全無欠なヒーローとして返り咲く。『アウトロー』(2013)では、決して若く時代の最先端にいる存在ではないことまでなんの衒いもなく示すようになり、映画の中でスターという仮面と内に秘めた素顔との間で引き裂かれることもなくなった。仮面を脱いだ彼の身体は映画の中で輝き始めた。『ミッションインポッシブル ローグネイション』(2015)、『ミッションインポッシブル フォールアウト』(2018)、そして『トップガン マーヴェリック』において、老体に鞭打ち時代に逆行しながら生身のアクションを遂行せんとするクルーズの姿勢に誰もが感動するようになった。スター俳優としてここまで強度のある支持を獲得できれば向かうところ敵なしと言えるだろう。
しかし、時折『アイズ・ワイド・シャット』で妻の寝室にパーティーの仮面を発見し愕然とする表情や、『コラテラル』で深夜のロサンゼルスを孤独に彷徨うコヨーテに向ける寂しそうな視線が懐かしくなるのもまた事実だ。仮面の下に隠したスターであり続ける葛藤や苦悩を、無意識的にせよ映画に刻んでいたトム・クルーズは、レーザーIMAXスクリーンのどこを探してももういないのである。


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