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自己刷新の神秘性

昨日喫茶店で時間を潰しながら本を読んでいたら、ページを捲る手を止められないほど感激した。戦後ドイツの作家インゲボルク・バッハマンによる『ゴモラへの一歩』という短編で、『三十歳』という短編集に収録されている。
大学でドイツ文学を専攻してもう3年近く経つのに、正直ドイツ文学に熱狂したことはなかった。課題で読まされる本で心を惹かれるものも沢山あったが、文字というメディアによる芸術としての文学の魅力を恥ずかしながら理解できていなかったのだ。学部の終わりが間近に迫ってようやく『ゴモラへの一歩』にそこまで熱狂できたのはなぜかと云えば、これが言葉にするのが難しいのだが、「言葉」という宇宙を感じさせてくれた点にある。
主人公は夫とバーを経営している女性シャルロッテで、ある晩黒いセーターに赤いスカートを履いた女性マーラから求愛をされる。この設定が示す通り本作はレズビアン小説というジャンルに該当するとも言える。実際マーラの誘い文句は社会的規範を振り切って主人公に迫ろうとする気持ちに溢れている。一方で彼女から求愛を受ける主人公の心情の変化を、バッハマンは驚異的な展開力と筆致で描いてみせる。同性から求愛されたこと、それを受けて男性の夫との結婚制度の中に自分が埋没していたと気づいたことから主人公の世界は動揺を始める。シャルロッテの脳内の言葉がある時は長大に、ある時は細切れに生成され続けるのだが、この文体は、彼女が自分の気持ちを整理しようとする試みに留まらず、もっと大きな何かに身を委ねているように感じさせるのだ。

だが、彼女はマーラには話し方を教えるだろう。ゆっくりと正確に話すことを教え、従来の言葉から来る濁りを許さないだろう。マーラを教育し、自分がずっと若いころに、もっといい単語が見つからないまま「忠誠(ロイヤリティ)」と名付けた性質へと、導くだろう。ーさまざまな意味を持った外国語だ。彼女は未知の単語にこだわっていた。いまだに、最も未知である単語を要求することができていなかったからだ。愛。誰も、愛を翻訳するすべを知らなかったのだ。

インゲボルク・バッハマン「ゴモラへの一歩」『三十歳』松永美穂訳、岩波文庫、2016年

ここでバッハマンは「愛」という言葉を使っているのだが、それはシャルロッテのマーラに対する感情を「説明」するための便利な記号としてではない。シャルロッテは若く情熱的なマーラに対してやや支配的な感情を抱いているのだが、そこで生まれる「忠誠」という言葉と、「愛」という言葉は翻訳によって微妙にズレた立ち位置にあるようだ。つまりシャルロッテにとって「愛」という言葉は、「忠誠」という言葉に置き換えられてしまい、完全に翻訳することができない言葉として存在している。
しかし彼女がこうした言葉の翻訳不可能性に拘り始めたのは、マーラから求愛を受けたからだ。夫との結婚制度の中では自分の言葉や、それが(多分に翻訳によるずれを介しながら)指し示す感情を意味することなど必要がなかった。ところが同性の女性から思慕の念を伝えられ、彼女と自分の間に関係性が生まれる予感が生じると、シャルロッテにとって言葉はただのツールではなく自分の「帝国」を作る材料であり、翻訳できないほどの未知性を持つものになるのだ。社会や制度から無視されて生きていた存在が言葉の威力を確信し獲得するということを、バッハマンは宇宙的なスケールにまで展開しながら描く。この試みがまさに文字媒体である文学で行われるため、一文一文を読むことがとてつもなくスリリングな快感だった。
今日は友人から勧められた『ファンフィク』というNetflixで配信中のポーランド映画を見た。主人公の高校生、トシュカが異性装を通じて性自認をトランスする物語をポップに描く。たまたま異性装(元々主人公は女性として描かれており、ここで男友達の服を着る)をしたトシュカが自分のなりたい姿はこれかもしれないと感じると、あるいはトランス男性となったトシュカが自宅で髪を切る時、映画はコズミックな世界観に突入する。宇宙空間の中を楽しそうに遊泳するトシュカは、心底自由な表情を浮かべている。これらの場面を見た時、バッハマンの宇宙観が不意の思い起こされた。『ゴモラへの一歩』、『ファンフィク』と立て続けに、自分の世界が刷新される体験の神秘性を教えてくれる作品と出会えた。学生のうちにこんな経験ができてよかった。


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