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『陽のあたる坂道』(原作:石坂洋次郎 主演:渡哲也 1967年3月25日公開)個人の感想です



『陽のあたる坂道』

石坂洋次郎の作品で石原裕次郎主演の『あいつと私』がとても面白かったので同じ石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』も観たくなった。石原裕次郎主演、渡哲也主演の2つあったが、渡哲也主演を観てみることにした。

『あいつと私』は、大学生のその時代の風俗を面白おかしくコミカルに描いたもので『陽のあたる坂』というタイトルと写真からさわやかな恋愛ドラマを想像したけれども、まったく違っていた。

物語の途中までは重苦しく、裕福なながらも訳ありなお金持ちのお家騒動的なお話であるかのように思えたが、終わって見ると作者が何を言いたいのかが私なりに解釈し、人として『やさしさ』とはどういうことかということを教えてもらった気がする

主役は、信次(渡哲也)というあるお金持ちの家の次男、その妹くみ子への家庭教師としてやってきた、たか子(十朱幸代)である。たか子が初めて訪問してきたときに信次が対応するが、そのたか子に向って家庭教師の条件を言う「成績優秀、人物、健康状態良好のこと、そしてもうひとつ美人であること」、そう言って大笑いし、持っていたペンキをたか子の胸に塗り付けるところから始まる。(要は見てる人に態度も口も悪い青年を印象付けるものだったと思う)

話はいろいろと展開するが、ポイントは、信次はこの家の子ではなく、父親(玉吉)が芸者に産ませて引き取った子であり、そのことを信次自身が気づき、父親を問い詰めて明らかにさせる。もちろん母親(みどり)は承知の上で信次を育てていた。そして気づいたことを母親にも伝える。

短絡的ではあるが、たか子が住んでいるアパートのお隣に信次の母親である元芸者(トミ子)とその息子(民夫)が住んでいて、ある時、たか子が信次とトミ子、民夫との関係性に気づく、また、信次もたか子を通じて自分の母親の存在を知ることになる。

信次は、お正月にトミ子がお友達と家でお酒を飲んで楽しんでいるところにお邪魔し、自分の存在を明らかにせずに民夫の友達のふりをして上がり込みトミ子と共にお酒をのみ、野球拳をして楽しんで帰っていく。

ある夜、みどりは、家族全員とたか子が揃ったところで、信次の出自の状況をせきららに話をする。しかし、信次は、特別恨み節を発するではなく、逆にみどりを母親として感謝し認める。

短く書くとこのようなことだが、この映画のメッセージは、「やさしさの姿はひとそれぞれ」ということではなかろうかと思った。終始荒れている信次ではあるが、女をもてあそび脅迫される異母の兄(雄吉)の身代わりになりお金を準備したり、出自が分かっても実母を慕い、育ての親とは面白く酒を飲みかわす、みどりは、夫がやった過ちを自分がそうさせたと思い、信次を自分の子のように育てる、そして雄吉は、ずるい男であるが、最後に信次に自分の悪を認め殴られるようなことをして、信次の気持ちにけじめをつけさせる。

それぞれの登場人物が過去の傷をかかえ、だましだましやってきたことが最後にすべて表面化し、それをいろいろな形で清算し、晴れやかな『陽があたる坂道』のシーンで終わる。

人が行うことには何かと自己責任が問われ、なかなか『間違い』が許されない現代社会、発信したものは誹謗中傷に晒されるインターネット社会、世知辛いなぁと思う。この映画を観ると、やはり人生はひとそれぞれ、過ちもひとそれぞれ、やさしさもひとそれぞれだと感じる。『やさしさ』の定義は非常に難しい、場面によって出すやさしさが違うし、相手との距離、関係性によっても違うからだ。この映画は、人の弱さ、強さ、やさしさを改めて考えさせられるものであったが、その『やさしさ』は、他人の行いを受け入れるところから始まるものだと感じた。

ちなみに、脚本のひとりに倉本聰となっているので、倉本聰ファンには必見かも。

では、また。


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