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クンツ博士の生涯が素敵すぎて映画化希望 - Vol.2

先の記事(Vol.1 - 少年・青年時代の情熱)に引き続き石界の巨人クンツ博士について、書いていきたいと思います。

時は、南北戦争(1861~1865年)が終わり、空前の好景気に沸くアメリカ。
19世紀後半(1800年代後半)のアメリカは第二次産業革命といわれ、イギリスを抜き世界No.1の超大国に駆け上がる熱狂の時代でした。

新たな産業や文化が花開き、各方面で新しいトレンドを生まれる中、アメリカのジュエリー業界も同様の躍進がありました。
その一翼を担ったのが、ティファニー社であり、クンツ博士でありました。

2023年現在では貴石・半貴石の違いをそれほど意識することすらなくなり、両方楽しむ土台が既に出来上がっていますが、1880年代のアメリカでは半貴石まだまだ一般的なものではありませんでした。

Vol.2の今回は、半貴石ジュエリーの流行を目指したクンツ氏とティファニー社の挑戦の足跡を見ていきたいと思います。

クンツ博士について、下記5つのパートに分けて書いています。
Vol.1 - 少年・青年時代の情熱
Vol.2 - 新宝石普及への挑戦
Vol.3 - 研究者として
Vol.4 - 今も残る影響
Vol.5 - ゆかりのある宝石達
本ページは Vol.2 - 新宝石普及への挑戦 - になります。

Vol.2 - 新宝石普及への挑戦

当初の半貴石ジュエリーへの世間の反応

若干20歳の若くしてティファニー社に請われる形で入社を果たした規格外の大型新人のクンツ氏。

入社後の初期の仕事は、創業者であるティファニー氏と会社の後押しを得て、従来の貴石中心のジュエリーではなく、新しい宝石、すなわち半貴石を利用したジュエリーの成否を世間に問うていくことになります。

しかしながら、当初の世間からの反応はクンツ氏の期待に反して、冷淡なものでした。この時の苦悩が一般の会社員らしく個人的には好きです。

当時の困難な状況を下記のように語っています。
『当然、最初は公衆は懐疑的でした。しばしば「ジルコン?それって何?ただの模造石じゃないの?」「それがそんな風に成長するの?」「いや失礼、それを身につけると偽物を身につけているような気がするわ」といった冷笑的な発言を耳にしました。また、「もちろんそれはきれいだけど、ジプシー(貧者)のような気分になるわ。着色ガラスの塊を身につけても同じことだわ。実際的な価値はないのよ」と言われることもありました。そして、かわいそうなその小さな陽光の塊は私の手のひらでしぼみ、私自身もそれに対する尊敬心を保つのが困難になることさえありました。』

Naturally, at first the public was skeptical. I not infrequently heard such withering remarks as: “A zircon? What’s a zircon? It’s just an imitation stone, isn’t it?… You mean it grows like that?… Oh, no, thank you, I’d feel as if I were wearing something false.” Or, “Well, of course it’s pretty, but I’d feel like a gypsy. I’d just as lief wear a lump of colored glass. It has no real value.” And the poor little blob of sunlight would dwindle in my palm till even I had some difficulty in maintaining my respect for it.

The Saturday Evening Post -  November 10, 1927

半貴石のジュエリー。
この考えに時代が追い付くには少し待つ必要がありました。
いつの時代も新しいアイディアを世間に問うというのは、勇気と忍耐を要すものだと感じます。

クンツ氏よると、この時代の流れがはっきりと変わったのは、1878年に英国ビクトリア女王の息子コノート公爵が、婚約者のプロイセン王国の王女ルイーズ・マーガレットに一筋の美しい猫目が入ったキャッツアイの婚約指輪(クリソベリル・キャッツアイ)を贈った出来事からだと回想しています。

About the time I was most worried about the launching of this new vogue in gems the Duke of Connaught, way off in England, took a fancy to marry and, without fear and without reproach, selected for his fiancée, not the conventional and lordly diamond but a humble little cat’s-eye. Well, when the Duke of Connaught can do that – With that as an opening wedge, I soon found greater favor for my hyacinths and my jacinths, my jasper and my jade.

日本語訳:
私が宝石の新しい流行を立ち上げることに最も心配していた頃、コノート公爵は遠くイギリスで結婚を望み、恐れもなく非難もなく、伝統的で高貴なダイヤモンドではなく、控えめで小さなキャッツアイを婚約者に選びました。まあ、コノート公爵がそうするのであればと。―― それが始まりの一歩として、私のジルコン、ジャスパー、ジェイドには次第に大きな好意が寄せられるようになりました。

The Saturday Evening Post - November 10, 1927

これはティファニー社に勤め始めてからわずか2年目での出来事でした。
クンツ氏持ってますね。

時代も味方する中、クンツ氏自身も、独自の方法で世間の宝石への関心を高めていこうと試みます。

クンツ氏は半貴石のプロモーションに苦戦する中、世間には、当初、受けが悪かった半貴石ですが、美に対して最も価値をおく人々、つまり芸術家たちには、多分な説明をせずとも半貴石の美は受け入れられるという勝ち筋も見出していました。

I invariably found that it was those who eared most for beauty – in other words, artists – who needed no persuasion to my way of thinking.

日本語訳:
お金にはあまり興味がなく、美に対して最も価値をおく人々、つまり芸術家たちには私の考えに説得を要しないことに気づきました。

The Saturday Evening Post -  November 10, 1927

当時交流があった芸術家のオスカー・ワイルドとクンツ氏の半貴石の宝石に対する会話が今風に言うとエモいです。

“But, my dear Kunz,” he said, “these are exquisite, charming! I believe I admire them even more than the precious stones for among them, except for rarities, we have only the four obvious colors, but here – why, there’s not a color on land or sea but is imprisoned in one of these heavenly stones! What wonderful jewelry could be made with these subtle phrases of color such things as only the ancients work of Egyptians, Persians, Greeks and Romans – such beauties as we moderns have never conceived. My dear fellow, I see a renaissance of art, a new vogue in jewelry in this idea of yours!” “And for those of conservative taste these stones can be as handsomely mounted in present-day settings as the precious stones,” I added. He snapped his fingers, shook that mane of hair.
“Bah! Who cares for the conservatives! Give them their costly jewels and conventional settings. Let me have these broken lights – these harmonies and dissonances of color. Can you price beauty by the carat?”

日本語訳:
オスカー・ワイルド;
「いやはや、しかし、親愛なるクンツ、これらは絶妙で魅力的だ! 
貴石よりもさらに愛しているかもしれない!
なぜなら、貴石には、明白な四つの色しかないが、ここには何と、陸地や海にある色が、これらの半貴石の中に閉じ込められているではないか!

これら微細な色彩を使えば、私たち現代人が忘れ去った美しさを誇る古代エジプト人、ペルシャ人、ギリシャ人、ローマ人が残した作品のような、、素晴らしい宝飾品が作れるのだ!
友よ、私は芸術の復興を見ている、ジュエリーの新しい流行をあなたのアイデアに見ている!」

クンツ氏:
「保守的な趣味を持つ人々のためにも、これらの石は貴石と同様の様式のジュエリーにも取り付けれます。」と私は付け加えました。

彼は指をパチンと鳴らし、髪の毛を振り乱しました。

オスカー・ワイルド:
「ばかなっ!保守的な人々なんてどうでもいい! 彼らには高価な宝石と伝統的な様式を与えてやれ。私にはこれらの乱れた光――これらの色の調和と不協和をくれ。美は値段で評価できるものではない。」

The Saturday Evening Post -  November 10, 1927

これら経験から、クンツ氏は芸術家、またその芸術家を支援するパトロンである富豪との繋がりを持ちはじめ、自らも社交界に身を投じていくことになります。

実際、クンツ氏が最初の妻と死別し、1923年に再婚した時、その結婚をNew York Timesで取り上げられています。当時、クンツ博士がどれだけの知名度を持っていたかよくわかる話だと思います。

如何に宝石自体の価値を上げるか?

もし皆さんが宝飾会社に勤務しており、お金持ちの富豪の知り合いができたとすれば、どうするでしょうか?

筆者も含め大半の方は、そういった富豪の方々に高価な宝石やジュエリーを如何に買ってもらうかに頭を使おうとするのではないでしょうか。

しかしながら、クンツ氏のスケールはそういった矮小なものではありませんでした。

仮に、富豪に宝石を売りつけただけであれば、宝石自体の価値は高まりません。如何に半貴石も含めた宝石の価値をあげるか?

クンツ氏が打った一手は、宝石コレクションの博物館での展示です。
人が集まる博物館に宝石のコレクションを展示することで、宝石への関心を引くと共に、宝石自体の価値の向上を狙ったアクションです。

しかしながら、ただティファニー社から直接博物館に寄贈しただけであれば、宝石コレクション製作に費やした労力と経費は回収できません。

そこで富豪の登場です。
製作した宝石コレクションを一旦富豪に買い上げてもらい、富豪の名において博物館に寄贈、博物館に展示してもらうという作戦です。

これにより、
・宝石に対する世間の関心を高める(多くの人の目に触れる)
・宝石自身の価値を高める(宝石は博物館に展示される程素晴らしいもの)
・富豪の名声も高める(博物館への寄贈者という名誉)
・クンツ氏の知名度を高める(宝石コレクションのキュレーターとして)
・収蔵品が増え、見に来る人が増える(博物館にとって良い)

自身や会社の懐を痛めることなく、宝石の評価を上げる事も含めた一石五鳥を達成するという究極の方法です。



実際に、1889年にパリで開催された万国博覧会(いわゆる、エキスポ)においては、クンツ氏は北アメリカで産出した宝石を中心に宝石コレクションを製作し、ティファニー社ブースで展示され大変な人気を博しました。

パリ万博1898年 - wikipediaより

この宝石コレクションは、当時アメリカ一の大富豪だったJ.P.モルガン氏に売却され、ニューヨークにあるアメリカ自然史博物館(American Museum of Natural History, 略称AMNH)に寄贈されました。

現在はTiffany-Morganコレクションと呼ばれ、アメリカ自然史博物館にあるアリソン・ロベルトミニョーネ宝石・鉱物展示ホール(The Allison and Roberto Mignone Halls of Gems and Minerals)で閲覧する事ができます。

アリソン・ロベルトミニョーネ宝石・鉱物展示ホールは、アメリカ自然史博物館内にある展示ホールの一つです。
このホールは、2021年6月12日にオープンしました。それまでの展示ホールであったハリー・フランク・グッゲンハイム宝石・鉱物ホール と モルガン記念宝石ホールの完全リニューアルとして登場しました。
数千の希少な宝石、鉱物標本、ジュエリーが展示されています。

Wikipediaより

また、次の国際万博である1893年シカゴ万博において製作した宝石コレクションは、ヒギンボーサム氏に売却され、シカゴのフィールド博物館(The Field Museum)に寄贈されました。

148.5ct Aquamarine / © The Field Museum

この時の宝石コレクションの目玉は148.5カラットのアクアマリンでした。

1876年からクンツ氏が進めてきた半貴石ジュエリーという新しい流行の立ち上げ。当初は違和感を持って迎えられましたが、1893年には半貴石であるアクアマリンが宝石コレクションの目玉をはれる程、世間から受け入れられてきたことには感慨深いものがあったのではないでしょうか。

誕生石コンセプトの先駆け"Natal Stones"の小冊子

また、現在広く普及している”誕生石(Birthstone)”という考え。

歴史を紐解いていけば誕生石は古い民族的慣習や宗教に結びついていることが知られていますが、この誕生石というコンセプトを整理し、商業的に活用しようと試みたのも、クンツ氏が一番最初でした。

クンツ氏とティファニー社は、1891年から誕生石の歴史や考えを紹介した冊子「Natal Stones: Sentiments and Superstitions Connected to Precious Stones(生まれの石 : 宝石に関連する感情と迷信 )」を制作し、顧客に配布を行っています。

" Natal "とは聞きなれない英単語ではありますが、「生まれの」、「出生に関する」などという意味になります。

現在の誕生石の単語で使われる” Birth (生まれの)”に比べれば、" Natal " はより出生により運命づけられる定めという天運、天命に近い意味が含まれています。

この冊子は、都度新装版が発行され、ティファニー社から顧客への配布は1891年から1931年まで続けられたとされています。

ちなみに、アメリカの宝飾品組合( the American National Retail Jeweler’s Association)が商業的活用のため各月の誕生石を取り決めたのは1912年のことです。
一方で、クンツ氏とティファニー社がNatal Stonesの小冊子の配布を始めたのは、1891年からと20年程早い訳です。

このことから、1912年のアメリカにおける誕生石(Birthstone)の制定の背景には、クンツ氏とティファニー社のNatal Stonesの冊子を通した宝石の啓蒙活動の取り組みによる影響があったと考えるのは、自然な流れではないでしょうか。

半貴石・半貴石ジュエリーを広めたい。

そんな夢を描いた一人の青年の思いが、ティファニー社に入社以降、会社を動かし、アメリカ宝飾組合もその恩恵に乗っかり、2023年現在ではアメリカのみならず日本人の宝飾品の購買活動にも少なからず影響を与えていると考えるのは誇張ではないでしょう。

一般的には、" 博士 "というイメージが強いクンツ氏ではありますが、企業人としても超優秀であったことがわかると思います。

では、博士すなわち研究者としてはどうだったのでしょうか。次のVol.3では、研究者としてのクンツ氏を見ていきたいと思います。

それでは本日はここまで。
皆さまの宝石ライフが色鮮やかでありますように。
<Vol.3 - 研究者として - に続きます。>

閑話休題・補足追記

・コノート公爵のクリソベリル・キャッツアイの指輪
コノート公爵が妻にキャッツアイのリングを送ったストーリーは有名で、クリソベリルをネットで調べれば直ぐに見つけることができると思います。

一方で、このキャッツアイの指輪の画像は見つける事ができませんでした。どういった指輪であったのか興味は尽きません。

Royal Collection Trust / © The Marriage of the Duke of Connaught, 13th March 1879

・Natal Stones の 小冊子
ティファニー社から1891年から顧客に配布されたNatal Stonesの小冊子。Googleのアカウントを持っていれば、Google Booksに登録を済ませば無料で読むことができます。


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