遊ぶこどもの声を聞けば -2011年3月の思い出-
こどもたちに大切なことを教えてもらえたというお話です。
2011年3月、東日本大震災の直後。
東のある街に住んでいた友だちが、避難してきました。仕事で現場を離れられない夫に勧められて、赤ちゃんとまだ幼い女の子をつれて、母娘三人で、西に住むわたしの家に避難したのです。
彼女のお父さんは、亡くなっていました。
家に着いて、友だちはおんぶした赤ちゃんを背中からおろして上着をぬがせました。3歳になるお姉ちゃんは自分でコートを脱ぐのをわたしは手伝いました。赤ちゃんは「ここはどこだろう」というきょとんとした顔をしてて、お姉ちゃんは、わたしと以前に会ったことがあるので、人見知りせず、にこにこと笑っていました。
「大変だったね」と、長旅をいたわる言葉を友だちにかけながら、お互いうまく言葉にできない気持ちがたくさんありました。
いつまでも余震の止まらない状況で、海が津波がこんなにこわいものだったなんて全く知らなくて、いつどうなるのかわからない事故がこわい、いろんな情報がニュースやネットで流れていて、目に見えないものがこわいわたしもいました。毎日はらはらして、どうしたらいいのか、これからどうなるのか、全くわからない世界でした。衝撃と恐怖と不安は心をぎゅううとしめつけていましたが、日々伝えられる情報にいつしか心も麻痺したように感覚がなくなっていきました。
そんな気持ちもうまく言葉にできない。
あの頃はそんな世界だったのです。
荷を解いて、また赤ちゃんをおんぶした友だちと、3歳の女の子に、お茶とお菓子をだしました。
友だちはほとんどしゃべりませんでした。
テーブルに出したお茶とお菓子に手をつけず、赤ちゃんをおんぶしたまま、その2年前に亡くなっていたわたしの父の遺影の前に行きました。座って、お線香をあげて、拝んでくれました。そして、そのまま何にも言わずに涙を流していました。
わたしはなんにも言えなくて、隣に座って、ただ見ていました。
そこへ、お茶とおやつを食べ終えたお姉ちゃんがこちらに来て、友だちに近寄って、だっこをねだりました。友だちはお姉ちゃんを抱っこしてあげました。だっことおんぶで子ども2人にはさまれながら、友だちは泣いていました。
母親の涙に気付いたらこの子たちはどうするだろうとわたしは内心案じました。
でも、お母さんが泣いていようが、そんなことには全くお構いなしに、お姉ちゃんはお母さんの膝の上ですっかりくつろいであおむけになりました。膝に頭をすりよせて身体を猫のようにくにゃくにゃさせながら甘えて、笑みを浮かべてなにか喋りました。
むにゃむにゃと発音しているので、わたしには何を言っているのか、全く聴き取れない言葉でした。
すると、おんぶされている妹ちゃんが、お姉ちゃんに反応して、大きな声を出して返事をしたのです。
それもなにを言ってるのか、わたしにはますますわかりません。
お姉ちゃんはお母さんにだっこされ、妹ちゃんはお母さんの背中でおんぶされ、お母さん越しに2人は2人だけの言葉で語りあって、声をあげて笑っていました。本当になにが面白いのか、赤ちゃんはにこにこと笑って、お姉ちゃんは手足をばたばたさせて大笑いしていたのです。
「なにが面白いんだろうねえ」
泣いていた友だちが、手で顔を拭いながら、笑いました。
「なにを言ってるか、母親ならわかる?」
「母親だけど、ぜんぜんわかんないわ」
「私もますますぜんぜんわかんないわ」
友だちも、わたしも、笑いました。
わたしたちが笑っているのに気付いたお姉ちゃんが
「えーなんで笑ってるの」
と膝から頭をあげて笑いながら言いました。
おんぶの妹ちゃんも声をあげて笑っていました。
「なんでだろうね、わかんないよ」
そう言いながら、友だちは、だっこしたお姉ちゃんをぎゅっと強く抱きしめて顔をうずめ、おんぶした妹ちゃんに手を回してぽんぽんとたたき、また涙があふれてきて泣きました。
わたしも胸がぎゅっとなって、涙がこぼれました。
でももう、さっきのはりつめた空気はほどけて、やっと、窓から射し込む陽だまりの暖かさを感じられたのです。
よくわからないことにあふれ、わからなさの冷たさに身がすくむ世界。
でも、こどもたちのことばのわからなさだけは、温かくて、柔らかくて、優しかったのです。
たぶん、友だちもそうだったんだと思います。泣きやんで、ふっと深く大きくため息をついて、やっとわたしを見て笑ってくれました。
「遊ぶこどもの声聞けば わが身さへこそゆるがるれ」
とは『梁塵秘抄』にある歌の歌詞です。この歌のように、遊ぶこどもの笑い声はひとの心を動かす力があると感じます。
わたしには自分のこどもはいません。こどもの世界とは、正直なところ、かなり心の距離があって、自分のこども時代の、寂しく悲しかったことを思い出して、こどもに対して悲観的に考えてしまうほうでした。
でも、何もかも変わってしまった世界で、何もできないまま、春になっていくことさえつらくて、陽ざしのぬくもりさえ喜べずにいた日々で、久しぶりにこどもたちの遊ぶ声や笑い声を聴いた時、「こどもの声が響く世界は幸せ」だと強く感じました。自分のこどもでなくても、友だちの子どもたちがかわいいと思えてぎゅうっとなりました。「幸せ」や「希望」というものはこういう世界だという気がしたのです。
そういえばわたしも、幼い頃、兄や、そのころ家にいた犬(ペロという名前の大きくて愛敬のあるかわいい犬でした)と遊びながら、お腹が痛くなるほど笑ったのを思い出しました。何が面白いのか覚えてないけど、とにかく面白くて笑い転げてました。そんな幼い頃の楽しかった自分を思い出して、はっとしました。
どんな災害が起きても、誰かが亡くなっても、どんなに悲しくても、
こどもは、ひとは、笑うのです。
その笑い声で幸せな気持ちになるんです。
とてもうれしかったんです。
こどもは小さな存在です。災害に対して最も弱い存在です。
でも、この世で最も小さき者であるこどもたちは、
本当はとても強い存在なんだと知りました。
生きてることをこんなにも肯定してくれる存在はいません。
こどもたちがいてくれて、あの日笑ってくれて、よかった。
遊ぶこどもの声を聞いて心が救われた、
忘れられない、2011年3月の記憶です。
○○年目の3月11日。
忘れてはいけない日だれど、思い出すのはつらい日です。
正直なことをいうと、その日が近づいてくるとあの日の写真や映像がテレビや新聞やネット記事でたくさんアップされて、みると心が痛くてつらいです。見ないでいようとする自分がいます。あの日のことをここに書くことによって少し慰められるひとがいる一方、むしろつらいひともいるということに思いを馳せます。
書かない選択もあったけど、書く選択をしたのがこの文章です。来年のわたしが無事でいるかどうかもわからないのだから、ここにも書いておけば何かが残るかもしれないし、自分自身が忘れてしまわないために。
(※2023年、改めて読み直して、言葉にできてなかったことを書き足しました)
心に関しては、年数は意味を持たないと思います。
再びめぐってきた3月11日という今日にできることは、「あの時」に心の錨を沈めて、ひとときたたずむことだろうと思います。
進む先が見えているひとは、また錨を引き上げて、前へ進めますように。
佇みたいひとは、好きなだけそこに佇み大切な名前を呼べますように。
でも決して孤独になりませんようにと心から祈ります。
こどもたちのあの笑い声が、いまもわたしの心の中にこだましています。友だちのこどもたちはすっかり成長して、中学生と高校生になっています。とっくに忘れているだろうけれど、わたしは忘れません。
いつかこんなことがあったよ、あなたたちに救われたんだよと話せる日がくるといいなと思っています。
こどもが楽しくおしゃべりする声が響く世界であってほしい。
祈りながら、この文章を閉じます。
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